首里城の大龍柱、正面向いていた? 正殿の正面階段手すり 親柱に「ほぞ穴」の痕跡


この記事を書いた人 Avatar photo 琉球新報社

 1985年から87年にかけて行われた、首里城正殿跡の発掘調査で見つかった正殿正面階段の欄干(らんかん)(手すり)の羽目石は、上部が欠けているがほぼ完全な形で残っている。羽目石の上辺と下辺を見ると湾曲しているのが分かる。同時に見つかっている親柱の前後には羽目石を接続したとみられる「ほぞ穴」の痕跡が残っている。調査をした琉球大学の西村貞雄名誉教授によると、羽目石と親柱を違和感なく並べることができたという。

県立埋蔵文化財センターが所蔵する欄干の親柱と羽目石=2020年3月10日、西原町上原(西村貞雄氏提供)

 西原町の県立埋蔵文化財センターによると、羽目石や親柱が見つかった地層や発見された地点は明確に分かっていない。

 現在、大龍柱の台石につながっている欄干の羽目石はひし形をしており、上辺と下辺は直線で湾曲していない。他に見つかっている遺物の羽目石もひし形をしている。西村氏によると、湾曲した羽目石は、その形状から階段の下から2番目の羽目石に当たるという。大龍柱に直接つながっていたと推測する根拠として、西村氏は湾曲の角度などを挙げている。ただ、他の羽目石に比べ、長さが少し短いという。

 西村氏によると、1768(明和5)年に作成された「百浦添御殿普請付御絵図并御材木寸法記(寸法記)」以降に作られた正面階段の欄干は、大龍柱の下に置かれた台石につながる構造になっている。西村氏は「1760年(江戸時代、宝暦10年)前後は地震が複数あった。大龍柱と欄干とのつながりに影響があったことから、8年後に作成された寸法記では応急措置として、台石を取り付けた形状で書いたのではないか。湾曲した羽目石は1760年前後の地震で損壊した、欄干の一部である可能性がある」と推測した。

 さらに「欄干が直接、大龍柱につながっていたとすれば、首里城に他にもある龍の彫刻の気の流れなどから考え、向かい合わせではなく、正面を向いていたと考えられる」との考えを示した。

(宮城久緒)