<杉田氏発言を問う・下>権威主義政治が表面化 責任追及の声聞き、連帯へ 阿部小涼(琉大国際法政学科教授)


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「杉田発言」で寄稿 琉大教授の阿部小涼氏

 性暴力被害者の相談事業を巡り、自民党の杉田水脈衆院議員が「女性はいくらでもうそをつけますから」と発言し、後に自身のブログで謝罪した。性暴力撲滅を訴えてきた「フラワーデモ」の関係者や性差別問題に詳しい識者に発言の背景や問題点を分析してもらう企画。2回目は、琉大教授で国際社会学、社会運動とジェンダーが専門の阿部小涼さんに寄稿してもらった。

 騙(だま)される恐怖をあおる被害者バッシングというヘイトは、敵を仕立て上げて攻撃する安全保障化(セキュリタイゼーション)の政治によく似た現れ方をする。恐怖に駆られた攻撃はたいてい弱者を標的とし、女性は歴史的にその犠牲者だった。ヘイトとは個人というより構造化の中に安住する。無謬(むびゅう)すなわち理論や判断が正しいとする神話は、政府権力が用意してくれるので、そこに逃げ込める立ち位置から行われるのだ。これを無謬主義と呼んでみよう。仲間内でこっそり解釈を書き換えておいて、「問題ないから正しいのだ」と独善する、男根主義に典型的な振る舞いのことだ。ヘイトへの同調は歓迎しても説明責任を果たす実践は認めないという、女性に対する徹底的な女性嫌悪(ミソジニー)と相性が良い。

 この無謬は、自由をはき違えた傲慢な放言に過ぎず、説明責任を追求されるとだらしなく崩れるので、「活発な議論のため」という名目で非公開にし記録を破棄する。無謬らしさを支えるのは仲間内の共犯性なので、問題発言よりもその前後左右を取り巻いていた者たちの身勝手な解釈こそ隠蔽(いんぺい)しておきたいのだ。

緊急開催された「フラワーデモ」で、杉田水脈衆院議員の発言に抗議する参加者ら=3日夜、東京都千代田区

 渦中の女性を悪者にし切り捨てるだけで終わらせてはならない。今回のヘイト発言問題は、踵(きびす)を接して起こった日本学術会議への人事介入と連続性をもって現れ、内閣府と首相官邸による権威主義政治の表面化として見るべきだろう。慰安婦をめぐる省察への攻撃、すなわち戦争責任の拒絶と両輪をなす軍事化の欲望と、その実現予算のための密談が、隠したことによってあらわになった。

 それにしても、と思う。海の向こうの米国では警察解体が叫ばれている。発火点となった人種主義と同じように、性暴力もまた警察・司法が受け止め損なってきた人権侵害だ。警察権力任せにせず、性暴力被害の大切な声を聴き取ろうとしたフラワーデモだからこそ、今回の責任追及の先頭に立つことができた。崎山多美の小説『月や、あらん』(インパクト出版会)が、李静和『つぶやきの政治思想』(岩波現代文庫)と呼び掛け合うように増補再版された。この2冊は、真実に隙間を許さない「証言」の正しさがそぎ落とす、生きるための記憶のかけらの物語があることを私たちに教えている。つぶやきをつぶやきのままに耳を澄ますフラワーデモたちの抗議に、「わたしも」とつぶやいて連帯の方へ歩きだそう。