【大城立裕氏を悼む】「沖縄背負う意志強さ」芥川賞作家 又吉栄喜氏


この記事を書いた人 Avatar photo 琉球新報社
又吉栄喜氏

 大城立裕さんとは1年ほど会っていなかった。文学関係の友人から病気がちだとは聞いていたが時々、報道にも登場していたのでお元気だと思っていた。突然の訃報には非常に驚いた。

 本当はあと5年くらいは頑張って作品を書いてほしかった。大城さんは私が生まれた1947年に文学を書き始めた。それから73年も文学一筋。2001年には沖縄の作家で初めて個人全集も出した。文学者的な人生は完結でき、充実していたと感じていらっしゃったのではないか。人間的にも小説家的にも悔いはなく、人生を全うされたと言える。

 お顔は柔和だが、意志がとても強くて忍耐力のある人だった。意志の強さをうかがわせるエピソードがある。私たち小説家の後輩の間では若い頃から毎日、原稿用紙の2枚分を書いていたというのが伝説として残っている。酔っていても嫌なことがあっても毎日2枚。作家仲間からすると、相当難しいことで並大抵なことではない。1カ月で60枚書けば短編小説が一編できるし、1年では700枚書くことのできる計算だ。それだけ自らを律し、打ち込む姿勢を持っていた。長編小説も数多いが、長編の場合、根気が求められる。

 大城さんは琉球や沖縄の土台の上に立脚し、遠方を眺め、琉球王国や組踊などの文化から戦前、戦中の苦しかった時代、戦後の米軍支配のことまでありとあらゆる沖縄の事象、全てを題材に小説にした。

 沖縄は小さい島だが抱えている基盤は大きい。琉球王国も沖縄戦も、ノロやユタなど文化的な側面も、米軍基地も、全てその基盤から表面に“顔”を出したもので、大城さんはそれを小説として書いてきた。若い作家は大城さんが書いた“顔”を確認しながらそれをさらに深めたり、別の角度から見たりして書いてきた。大城さんがいかに沖縄の後輩に影響を与えてきたかが分かる。

 ただ、会って話しても大城さんは文学の話はほとんどしなかった。文化や琉球の歴史などスケールの大きな話題が多かった。後輩たちにも小説の書き方を指南するというスタンスではなく、まず、とにかくもがいて自分自身で道を見つけなさい、という考え方だった。小説というものはそれこそ、口笛を吹きながら書けるようなものではないと捉えていた。小説家は軟弱ではだめでそれこそ寝食を忘れてでも、滝に打たれて頭を冷やしてでも死ぬ気で書け、という雰囲気を感じた。自分にも厳しい分、他人にも厳しいと感じる部分があった。

 大城さんは常々、「沖縄は小さい島だが抱えているものや問題になっていることは大きい。それを本土に発信したい」と言っていた。政治的な問題でも小説家は小説の中に潜り込ませて書く。だが最近では政治が暴走するスピードが早すぎて、小説として書く時間がなく、講演やインタビューでストレートな表現が出てきたのかもしれない。

 若い頃から大病を何度も患ったと聞くが、90歳を超えるまで頑張ってこられたのは沖縄の文学界を背負って立っているという意志の強さから簡単に死ぬことができないという気概があったのだろう。ご冥福をお祈りしたい。
                                                     (談)

芥川賞受賞の知らせを自宅の電話で受け、大城立裕氏と握手をする又吉栄喜氏=(1996年1月11日)