国体で団体種目初制覇 沖縄一般女子代表をけん引 猛特訓重ね、五輪演武者つかむ 弓道・東史子<沖縄五輪秘話13>


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 1963年の夏、那覇市寄宮の主席公舎内の宮城森弓道場に連日、日が沈む時刻になると袴(はかま)姿の女性弓道家たちが集いだした。静けさの中、黙々と弓を引き、弓道の神髄である「正射必中」(正しい射法で射られた矢は必ずあたる)を追究する。求道者の練習は毎日午後10時ごろにまで及んだ。10月の山口国体を目前に一般女子への出場を控えた東史子、仲村昭子、高良実子は厳しい訓練に没頭していた。

大番狂わせ

東京五輪の公開演武に向け、伊勢神宮の弓道場で開かれた合宿で細やかな指導を受ける東史子(右) =1964年、三重県(東行宏さん提供)

 迎えた国体本番、10月29日の遠的種目で沖縄は予選を7位で通過し、1人4射の計12射による総合得点で競う決勝に初めて駒を進めた。張り詰めた空気が射場に漂う。8府県による大一番が幕を開けた。弓矢を手にした東から約1メートルの至近距離には観戦する皇族の姿があった。緊張感がいや増した。

 「沖縄の東です」。立番を迎えると、案内役を務める全日本弓道連盟の宇野要三郎会長が皇族に自分の名前を紹介する声がはっきりと耳に入ってきた。一瞬、体がこわばる。すぐに心を静め、的に向かった。結果、4射皆中でチームトップの24点。「すぐ冷静を取り戻し、心の動揺なく弓が引けた事が、本当に幸運であった」(沖縄県体育協会史)。

 チーム最終成績の計56点は、予選トップだった神奈川に7点差を付けて1位。沖縄弓道連盟の設立からまだ5年目という草創期で、他府県に遅れていた沖縄が、全国制覇という大番狂わせを成し遂げた。優勝が決まった瞬間、強く抱き合い、涙があふれる3人。取り囲む報道陣が次々とカメラのシャッターを切り、客席や本部席からは盛大な拍手が降り注いた。

 「優勝するとは思っていなかった。できれば3位ぐらいと思っていたが、何と言っていいのか」。翌30日付の琉球新報朝刊には、まだ日本一の興奮冷めやらぬ東のコメントが載った。戦後、沖縄が国体に参加し始めてから12年目で、団体種目での優勝は他競技を含めて初めて。皇后杯で初の得点を得た。

 翌日の近的決勝トーナメントでは強豪の神奈川、富山を破り決勝へ。最後は地元山口に8―10で惜しくも敗れたが、遠的の得点と合わせて初の総合優勝を達成した。東は遠的の3戦で放った計12射のうち11中と抜群の強さを発揮。「私の終生忘れられない日」として東の記憶に残り続けたこの日は、沖縄スポーツ界にとっても時代を画す日であった。

最終審査に合格

山口国体で優勝を飾り、メンバーと抱き合って破顔する東史子(左)=1963年10月、山口県山陽町の弓道会場(沖縄県体育協会史より)

 国体で全国にその名を知らしめた東に朗報が舞い込む。功績が認められ、翌64年の東京五輪の弓道公開演武一般女子の候補選手に抜てきされた。この時点で全国の実力者20人が選抜。本番にはさらに10人にまで絞り込まれる。新たな挑戦が始まった。

 最終審査までの期間は5カ月。この頃には那覇市に住居を移し、子育てや家業の合間を縫いながら、早朝2時間、夜2時間の猛特訓を続けた。三重県の伊勢神宮にある弓道場で行われる合同合宿にも度々を足を運んだ。審査日程は64年8月18~21日。1週間後に控えた8月11日、東は空路でいったん東京へ向かい、宇野会長から教えを受けた後、審査会場の伊勢神宮に入った。那覇をたつ際には、取材に「ぜひオリンピック公開演技出場の栄冠を勝ち得たい」と意気込みを語っていた。

 審査から10日ほどがたった9月2日午後5時半ごろ、自宅に電報が届く。内容は翌月の五輪公開演武を行う10人のうちの一人に選出されたことを知らせるもの。「選ばれたのは、諸先輩方のおかげだと感謝しております。一生懸命頑張りたいと思います」と喜びのコメントが残る。最高の称号である範士も参加した審査で、当時まだ称号のなかった東が選ばれことは快挙であった。

 東京入りしたのは本番を2週間後に控えた9月26日。当時、取材に心境を語っている。「これまでいろいろな大会に参加しましたが、それは地区代表とか沖縄の代表選手としてだった。今度は日本の代表選手となるので、一層心が引き締まる思いがします。代表に恥じない立派な演技をしたい」。並々ならぬ決意を胸に、那覇空港をたった。

 (敬称略)
 (長嶺真輝)