0.5秒差で五輪に届かず 30代で楽しさを再確認 マスターズで何度も日本記録更新 競泳背泳ぎ 我部貴美子(下)<沖縄五輪秘話18>


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メキシコ五輪の代表選考を兼ねた日本選手権の競泳女子200メートル決勝当日。金田平八郎コーチ(右)の話に耳を傾ける我部貴美子=1968年8月30日、東京の代々木オリンピックプール

 1966年の日本選手権女子競泳背泳ぎで100メートル、200メートルの2冠を達成し、競争が低調だった日本女子競泳界に“すい星”のごとく現れた我部(現・榎本)貴美子。山田スイミングクラブ(SC)で毎日約3時間、計5千メートルの練習をこなし、高校1年となった翌年も両種目で2連覇を果たしてメキシコ五輪が開催される68年を迎えた。(長嶺真輝)
 同年の琉球新報新年号には、同じく五輪候補だった陸上男子三段跳びの具志堅興清との対談が載った。我部は「あまり実感が湧かないし、人ごとのようだなって言われる」と心境を語っている。当時弱冠16歳。「あの時は国際大会も少なくて、国内トップになるとずっと追われる立場。きつかった」。五輪への熱意を燃やし続ける余裕はなかった。
 4月には環境の変化も。山田SCで監督を務めた金田平八郎が職を退き、東京のレジャー施設「サマーランド」内に金田スイミングクラブを開校した。我部も拠点を移した。

■ライバル出現

 五輪選考会を兼ねた日本選手権が8月末に迫る中、山田SC時代の僚友である合志幸子が6月の関西選手権背泳ぎ100メートルで我部の自己ベストと同タイムを記録し、代表争いのライバルに名乗りを上げる。我部は200メートルを得意としていたが、五輪代表は400メートルメドレーのリレーメンバーを兼ねるため、選考には100メートルの結果に力点が置かれた。スピード勝負で最後まで推進力の低下を防ぐため、持久力強化に注力した。
 8月29日、東京の代々木オリンピックプール。選考会の初日、我部は200メートルを1位、100メートルを2位で予選通過する。翌30日の200メートル決勝ではライバル合志を0・4秒差で振り切って3連覇。100メートル予選では合志に1・6秒遅れを取っていたこともあり、揺れる心を奮い立たせるコメントを発した。「100メートル決勝でもぜひ優勝して、メキシコ行きを確実にしたい」
 迎えた31日の大一番。思い描いた勝利の展開は「合志を前半からリードするか、ぴったりと並び、後半で抜く作戦」(金田コーチ)。理想にたがい、スタートと同時に合志が175センチの高身長を生かしたストロークですぐに抜け出す。我部も諦めない。後半の猛スパートで徐々に差を縮めていく。しかし、追い込みは無情にも約半身分足りず、結果はわずか0・5秒差の2位。同日開かれた日本水泳連盟の会合で、合志が女子背泳ぎ代表に決定した。
 レース後、報道陣を前に「もう水泳を辞めたい気持ちです」とポツリ。代表権を逃した悔しさから発した言葉と受け止められたが、本心は違った。我部が当時の心中を明かす。「オリンピックに行けなかった落ち込みはなくて、それ以外のことで『辞めたい』と言った」。この日に向けて張り詰めていた緊張の糸が切れ、競技から一層気持ちが離れてしまった。
 あれから52年。時間の経過とともに別の思いも湧いてきたという。「選考に漏れた時、小学校の恩師が実家に泣きながら訪ねてきたことを後に聞いた時は『期待に添えなかったんだな』と思った。五輪に行けるチャンスを自分は生かせなかった」。少し複雑な表情を浮かべ、そう言った。

■日本選手権4連覇

 日本選手権後は競技を離れ、沖縄で飲食店のアルバイトを始めた。ある夜、新聞記者を名乗る男性から街中で高圧的な言葉を浴びせ掛けられた。「こんな所にいるからオリンピックに行けないんだ」。カチンときた。「もう一度日本選手権でベストを出して優勝し、競技を辞めよう」。久しぶりに闘志が湧いてくるのを感じた。
 高校3年で迎えた翌69年の日本選手権では200メートルで4連覇、100メートルで自己ベストを更新して3度目の2冠を達成し、有言実行を果たす。青春期の大半を競泳に注ぎ、多くの栄光と苦しみを味わった。「指導を含め、私はもう水泳に一切関わらない」。そう心に決め、プールから離れた。
 しかしそれから10年以上がたった30代前半、再び水泳と出合う。小学校低学年になった子どもが水泳の授業でノルマを課され、教えるために市民プールに足を運んだ。久しぶりに水に入ると、競技を始めたばかりで波之上のプールで泳いでいた小学生の頃のように純粋に楽しかった。マスターズ大会に出場するようになり、カテゴリ別で日本記録も度々更新した。「泳ぐこと自体は嫌いじゃないし、元々好き。もう競争も関係ないから、純粋に楽しくね」。苦悩した10代の頃の自分に語り掛けるかのように優しく笑った。
 オリンピックへの出場はかなわなかったが、まだ日本復帰前の沖縄から13歳で強化の最前線へと飛び出し、日本の競泳史で一時代を築いた我部。県勢の日本選手権優勝者は現在に至るまで、男女を通じてただ一人だ。その輝かしい功績は、これからも色あせることはない。 (敬称略)
 (毎週金、土曜掲載)
(「我部貴美子」の項おわり)

国内のトップに君臨し続けた現役時代の我部貴美子