沖縄大学地域研究所特別研究員の沖本富貴子さんが請求し、公開された第32軍司令部の留守名簿では、「偕行社」に動員されたとみられる人の多くが1945年6月20日に沖縄本島で戦死と記載されていた。慰安婦と同じ意味とみられる「特殊軍属」として女性らが沖縄戦に動員され、軍に従って行動した末、戦場で命を落としたことになる。名簿に記載された生年月日によると、最年少の女性は当時15歳だった。
留守名簿のうち、「特殊軍属」と記された2ページ分の名簿には14人(後で削除の1人を含む)の氏名があった。本籍地は山口、香川、東京、滋賀、群馬、大分、熊本、福岡など。
14人の記載のうち「軍属(無給)」が8人、「軍属」が3人だった。記載なしが3人いた。
生死について、14人のうち9人が6月20日に沖縄本島で戦死と記されていた。「抹消」、「帰還」、「復員」、記載なしがそれぞれ1人ずつだった。
45年5月10日の球軍日々命令綴では「与座到着後は、自力に依る」と記されている。32軍司令部は摩文仁撤退の決定を前に、首里城地下にいた偕行社の女性らに糸満市与座への移動を命じ、移動後は軍に頼らないよう命令していた。女性たちは与座へ移動した後、戦場に放り出される形となり命を落としたとみられる。
沖本さんは「軍は女性を出身地によって差別し、将校相手には九州や沖縄の出身女性が対応させられたという証言もある。32軍司令部の名簿に女性らの氏名があるということは、偕行社が高級将校相手とした肝いりだからだろう」との見方を示した。
(中村万里子)