<検証 豚熱1年>②「私たちは加害者」胸に前向く 父から継いだ農場「私が守る」 喜納農場3代目の再建


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written by 石井恵理菜

 沖縄市池原で親子3代続く「喜納農場」。2020年1月に農場で豚熱(CSF)が発生し、3012頭の豚を失った。3代目代表の喜納忍さん(38)は「父が作り上げてきたノウハウをゼロにはしない」と、この1年間、再建に向けてがむしゃらだった。ゼロからのスタートを機に、農場の衛生管理を高める国際規格「農場HACCP(ハサップ)」の取得に向けて奮闘する。

豚熱を乗り越え経営再建に向けて歩み始めている、喜納農場の代表・喜納忍さん(右)と、父の憲政さん(本人提供)

 「私たちは豚を死なせてしまった加害者」―。喜納さんは、真っすぐ前を見て語る。喜納農場は、最初に豚熱感染が見つかった養豚場から約1・6キロの距離に位置する。日頃から、法律で定められた農場の衛生管理を順守していた。県外で豚熱が流行していたことから、より一層防疫を強化していた。

 県内で1986年以来34年ぶりに豚熱ウイルスが見つかったと聞いても、「(うちの農場で発生は)絶対ない」と思っていた。

 だが、発生農場から半径10キロ圏内で実施される家畜検査で、2回行った検査のどちらとも陽性反応が出た。「うそだ」と、にわかに結果を受け入れられなかった。

 1月10日の夜中から殺処分が始まった。防疫措置が行われた1週間、喜納さんは農場から離れず、3012頭の殺処分を最後まで見届けた。目の前の光景は、まるで現実感が湧かなかった。体重150キロの母豚が逃げ回り、農場内にある井戸に落ちる場面もあった。農場メンバーがひもを体に巻き付けて井戸に降り、豚を引き上げた。殺処分の間中、「私のせいだ。ごめん」という言葉が頭をぐるぐると回った。

 父・憲政さんには殺処分を見せられず、「農場には来ないで」と伝えた。殺処分に当たる県職員や自衛隊の作業に横から指示を出しては煙たがられながら、「ここは私とお父さんの農場だ」と絶対に農場を離れなかった。

 防疫措置が終わって以降もしばらく食べ物が喉を通らず、体重が10キロ落ちた。食べ物の匂いが、殺処分中の臭いを連想させた。殺処分された豚の補償金の話し合いも長引き、投げ出したいと思った。それでも「父が生きている間、農場はつぶさない。私が農場を守る」と負けなかった。

 昨年8月に母豚を買い入れ、県食肉センターから預かった豚も育てている。少しずつ、農場は活気づいてきている。新たな挑戦としてキッチンカー「Kinner’s(キナーズ)」も9月にオープンした。

 昨年3月からは、薬品会社のサポートを受け、農場ハサップの取得に向けて農場メンバーで定期的に研修を重ねてきた。取得に向けて、農場内の各部門(部屋)ごとに長靴を替えて消毒を行うなど、ウイルスの侵入を確実に断ち切る衛生管理の構築に取り組む。

 発生農場だからこそ、認証取得が消費者の安心につながると考えた。海外でまん延するアフリカ豚熱(ASF)の脅威への備えもある。順調に行けば、今年6月にも農場ハサップを取得できる見込みだ。

 喜納さんは「豚熱が発生して、農場メンバーの意識が変わった。『ああしていれば豚熱にはならなかった』という後悔をみんな抱えている」と語る。その上で「ワクチンを打っているからと、ほっとしている場合じゃない。緩んだ時に入ってくる」と、県全体で防疫意識を底上げしていく必要性を指摘する。

 この1年、悲しむ暇もないほど仕事に追われた。常に前だけを見てきた。ただ、死んだ豚とはまだ向き合えていない。「向き合うにはあまりにも悲しすぎる。しっかり再建した時に向き合いたい」