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コザ高校(3)周辺に米軍歓楽街 抵抗と反骨心で歩んだ「私たちの道」 幸喜良秀さん、志田房子さん <セピア色の春ー高校人国記>


この記事を書いた人 Avatar photo 上里 あやめ
1960年代のコザ十字路周辺(沖縄県公文書館所蔵)

 コザ高校12期の演出家、幸喜良秀(82)は1950年代半ばのコザ十字路を思い出す。「僕たちにとって通学路のコザ十字路は悲しい地だった」

 十字路を挟んで黒人街と白人街に米兵の歓楽街が分かれていた。幸喜はわが物顔で十字路を闊歩(かっぽ)する米兵に無言の抵抗を試みる。

 「十字路を通って歓楽街に行く米兵に道を譲らず、まっすぐ歩いた。ここはわれわれの道だ、米兵たちの道ではない、と。毎日、何人の米兵に道を譲らず十字路を渡れるかが勝負だった」

幸喜良秀氏

 コザ高校の校歌に誇りを抱いていた。「校歌で『自由の学園』『平和の学園』とうたった。自由と平和には抵抗の意味があった。僕らは自由と平和のために闘うという思いだった」と幸喜は語る。作詞者は3代目校長で琉球古典音楽研究家の世礼国男である。

 女児が米兵に殺害される事件に悲しさを怒りを覚えた。米軍の強制土地接収に抗(あらが)い、伊佐浜土地闘争に加わった。「私たちの共通語は『ウチナーンチュも人間だ』だった。それは今も変わらない」

 文芸クラブの部長として創作活動に力を注ぎ、文芸誌「緑丘」を編んだ。当時、出版物は許可制だった。米統治を批判する内容を巡って「米軍ににらまれないように」と指導する教師と対立した。「検閲は民主主義に反すると教師に反論した。生徒を守るという愛情から指導したのだろうが、僕たちは苦痛だった」

 幸喜は米軍によって命を奪われた少女を悼み、人権抑圧への抵抗を刻んだ詩「少女の死」を「緑丘」5号(1956年刊)に載せた。

 「我々は忘れてはいけない。/島の土に宿る我等の同胞の魂を!!/そして/島にこぼれた血は一滴も拭ってはいけない!!」

 在学時、演劇クラブの部長で、作詞家・音楽プロデューサーとなる備瀬善勝に誘われ、芝居に出た。幸喜は親しみを込めて備瀬を「善(ぜん)ちゃん」と呼ぶ。

 「善ちゃんに言われて『三年寝太郎』という芝居に出演した。おかげで今日まで芝居から抜けられなくなったよ」。こう話す幸喜は穏やかな笑顔を浮かべている。

 琉球大学国文科に進んだ幸喜は演劇集団「創造」を結成し、演出家の道を歩み出す。文芸クラブで共に活動した桑江常光、戯曲「人類館」を書いた知念正真、「人類館」で調教師役を演じた内間安男が「創造」を支えた。いずれもコザ高卒である。87年設立の「沖縄芝居実験劇場」では小説家の大城立裕らと共に沖縄演劇の新境地を切り開いた。

志田房子氏

 幸喜の同期に、国指定重要無形文化財「琉球舞踊」保持者で琉球舞踊重踊流初代宗家の志田房子(83)がいる。

 那覇で生まれ、3歳で玉城盛重に師事した。沖縄戦でやんばるの山中に避難し、戦後はコザで暮らした。47年2月、沖縄民政府文化部の芸能審査の告知記事が新聞に載った。「受けてみようか」という母の一声で受験したところ合格し、先輩の舞踊家と共に踊った。

 「軍に頼まれ、基地を回って踊った。ギャラ代わりにたばこや食べ物などいろんな物資をもらった。近所の方々にも分け、喜んでもらった」

 53年11月、コザ中3年生の志田は文部省主催の芸能祭に出演する芸能視察団に加わる。コザ高在学時の55年8月にはハワイにも招かれた。激励芸能祭がコザで開かれ、盛大に志田を送り出した。

 コザ高周辺にある米軍の歓楽街との関わりで忘れがたい思い出がある。生徒の安全を考え、女生徒は髪は短く、男生徒は丸刈りにするよう指導された。

 「私は舞台に上がる。髪の毛は命」と信じる志田は苦しい立場にあった。学校の指導を拒み、朝礼で一人立たされることもあった。それでも卒業まで髪を切らずに三つ編みをして登校した。「この経験が私のバックボーンになったと思っている」と振り返る。

 「私の髪は生活の一部。将来に向かって必要な髪だった。周囲も『ふー子頑張れ』と励ましてくれた。髪を切りなさいと学校に言われたが私は耐えた。この道一筋に進むんだという覚悟を決めていた」

 コザ高を卒業した後も「この道」を歩み続けた志田は昨年12月、国立劇場おきなわで芸歴80年記念公演を開いた。
 (編集委員・小那覇安剛)
 (文中敬称略)