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コザ高校(7)独自のチャンプルー文化を形成 各地から人が集うおしゃれな都会に 豊川あさみさん、前川英之さん<セピア色の春ー高校人国記>


この記事を書いた人 Avatar photo 上里 あやめ

 広大な米軍基地を抱え、独自の歩みを続けてきたコザ。県内各地からさまざまな人が集まり、街が形成された。「チャンプルー」と例えられる独自の文化も生まれた。

豊川あさみ氏

 金武町を拠点に地域資源を生かした街づくりに取り組むインターリンク沖縄の社長、豊川あさみ(69)はコザ高校の25期。金武で生まれ育ち、中学3年の時にコザに移った。「黒人街、白人街の最後を垣間見た世代だ」と振り返る。

 友人には「進学のため引っ越す」と話していたが、別の事情があった。家業の金武酒造を経営していた父の奥間慶幸の急逝で家が慌ただしくなり、母輝子が娘の転居を決めたのだった。

 「感受性の強い時期を迎えた私をここで育ててはいけないと母は考えたようです」

 越来中学校に1年通い、67年にコザ高へ入学した。「料理好きで、竹を割ったような性格は父譲り」という豊川はコザの空気に溶け込む。「勉強ができる子、やんちゃな子の双方と友達になれる素地を持っていた」と自己分析する。

 クラスではまとめ役を買って出た。学校行事の余興では当時はやっていた民謡「ちんぬくじゅーしー」に合わせて踊りを創作し、評判となった。「おてんばだったんで男子生徒も動かせるんです」

 合唱部でも活動した。顧問は沖縄の合唱指導で功績を残した嶺井政三であった。音楽が得意ではなかったという豊川だが、嶺井にはあこがれた。

 「嶺井先生はカラヤン指揮の交響曲に合わせて、楽しそうに音楽教室をモップがけするんです。『先生、掃除が好きなんですか』と聞いたら『きれいな所で音楽をやったほうがいいでしょう』と答えてくれた」

 卒業後、東京へ。幼稚園の教諭を務めた後、金武酒造の企画担当を経て専務となる。町内の鍾乳洞を活用し、泡盛を熟成させる試みで注目された。97年にインターリンク沖縄を設立。特産の田芋を生かした創作料理が人気となる。「父ならどうするかを考え、行動してきた。私はやると決めたらぶれない」と豊川は語る。

 コザ高校の仲間は今でも応援団だという。「家庭的な校風は居心地が良かった。先輩たちや同級生に感謝している。私が生きていく上での基軸となった」

前川英之氏

 ラジオ沖縄社長の前川英之(61)は33期。伊良部島で生まれ育ち、親の仕事の都合で中学3年の時、コザに転居した。コザ高入学は75年。「田舎から都会に来たという感じだった。コザはおしゃれな街。人もおしゃれでキャラクターが立っていた」と当時の空気を懐かしむ。

 コザは音楽の街でもある。校内でも音楽は鳴り響いていた。「当時はやっていたのはレッド・ツェッペリンやディープ・パープル。学校にはコピーをしている生徒がいた。フォークが好きな生徒もいた。学校全体が格好良かった」

 自身は卓球部に所属した。コザ高は強豪校だった。「1年365日、練習に打ち込んだ。高校時代の思い出は卓球しかない」と言い切る。練習にはOBもやって来て熱心に指導してくれた。

各種のスポーツ大会で獲得した賞状や盾=コザ高校

 卒業後、1浪して琉球大学法文学部に入学した。もともとは教師志望だったが、たまたま聞いたラジオのニュース番組で、実況を交えた放送の臨場感に引かれた。そのころラジオ沖縄の募集があり、83年に入社した。若者の人気を集めたラジオパーソナリティーで若くして亡くなった高良茂は同い年だった。「同じ大学生でこんなに話せる高良さんを尊敬した」

 入社から7年間、報道現場を歩んだ後、番組ディレクターに。「ROKヤングシャトルとんでもHAPPEN」「R-DAYSへのへのうしし」などの人気番組を手掛ける中で「リスナーと遊ぶこと」の面白さを実感した。

 ネットが幅を利かす時代でも「ラジオは残る」と前川は語る。

 「ラジオは人に優しいメディアだ。人を大事にできるパーソナリティーがいる限り、ラジオは続いていく。ラジオは人と人をつなぐメディアだ」

 ラジオ沖縄は昨年7月、開局60年を迎えた。社是は「ローカルに徹する」。幅広い世代の身近なメディアであるラジオの可能性を前川は信じている。
(編集委員・小那覇安剛) (文中敬称略)