医師継ぎ現役83歳、亡父の歩みと沖縄戦つづる「子孫の道しるべに」


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人生の師となった父の立志伝を中心にまとめた「町田家史誌」を発行した町田宗孝さん(中列右から2人目)、妻の節子さんと息子や孫たち=14日、北谷町上勢頭の町田さん宅

 【北谷】83歳で今なお医療現場に立つ町田宗孝さん=北谷町上勢頭=が、父・宗邦さん(享年74歳)の波乱万丈の人生をまとめ、このほど「町田家史誌」として発刊した。宗邦さんは、47歳で医師免許を取得し、地域住民からは「町田先生は神様だ」と語り継がれている。郷友会や親戚、知人らに贈ったところ、知られざる人柄や逸話が活写され、改めて読後に感動の輪を広げている。

 宗邦さんは農家で育ち、一時農業に従事したが、21歳で陸軍に志願。除隊後、北谷村の吏員となるも意を決して27歳で上京。警察官となり13年余、勤務した。既に家庭を構えていたがその間、弟3人の学費を全面的に支え、2人は医師、1人は農学校教諭となった。

 しかし、宗邦さんの青雲の志は高まるばかり。今度は自身が医学に挑戦。帰郷して猛勉強の末、当時日本の占領地であった中国の山東省青島市の医学校に合格した。この時42歳。20倍の難関突破で、合格者の中で最高齢だったという。

 快挙を知ったのは警察官時代の署長の早川元氏。後年1941年から43年まで第25代の沖縄県知事を務めた人物だ。早川氏は当時の琉球新報に「弟の3人も成功させた日本一の立志伝」と寄稿し、激賞している。

300冊発行された「町田家史誌」

 宗邦さんは53年、コザ市(現沖縄市)の山里交差点近くに開院した。「『医者は仁術なり』を実践、患者は平等に対応し地域医療のために努力を惜しまなかった」と、宗孝さんは語る。終生変わらぬ奉仕の精神はいつの間にか「町田先生は神様」と呼ばれ、地域や患者から全幅の信頼が寄せられた。

 昼夜の激務で体調を崩したのは70歳前後。その病床から山田真山画伯の平和祈念像を制作するアトリエの改築資金として1万ドルの小切手を贈った。同祈念像は現在、世界平和のシンボルとして糸満市の平和祈念堂にある。その篤志は10年余も公にされず、関係者は「それがなければ祈念像の制作は頓挫したかも知れない」と述懐する。

 町田一家も沖縄戦に翻弄(ほんろう)された。宗邦さんの娘3人が犠牲となった。宗孝さんは人間の命に関わる医師として「戦争行為は最大の罪悪である」と、戦争体験を風化させてはならない決意も併せてつづっている。

 町田家の180年余、7世代にわたる系譜も再編さん。宗邦さんが4代目、宗孝さんは5代目となる。今年は宗邦さんの五十年忌。宗孝さんは「出自をしっかり知ることで子々孫々の道しるべになる」と詳細に記録をまとめた動機を語る。北谷町上勢頭にまちだクリニックとして宗孝さんから引き継ぎ新装開院した息子・宏さん(54)は「家宝として、その精神をしっかり引き継いでいきたい」と話した。
 (岸本健通信員)