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知念高校(2)はだしで通った学校、米統治下の鬱憤を文芸に 仲里利信さん、大城将保さん <セピア色の春―高校人国記>


この記事を書いた人 Avatar photo 琉球新報社
1957年ごろの知念高校の校舎全景(創立50周年記念誌より)

 元県議会議長で衆院議員を1期務めた仲里利信(84)は知念高校の10期である。入学は52年4月。その1カ月半前、知念高校は玉城村親慶原から与那原町の現在地に移転した。

 「僕らの合格を発表した途端に『鍬もってこい、シャベルもってこい』ですよ。まだ入学前。校舎造りもやった」と仲里は語る。生徒も一緒に新しい学校を築いていった。

 1936年、南風原で生まれた。沖縄戦で通信隊に動員された父や祖父を失った。宜野座村に避難した仲里ら家族9人は山中で日本兵の恐怖を目の当たりにする。

仲里利信氏

 「壕に避難していたら3歳の妹といとこが泣き出した。すると日本兵が来て『泣いていると敵に見つかる。これを食べさせろ』と言って毒の入ったおむすびを渡された。母は『死ぬ時は皆一緒』と言い、家族で壕を出た」

 その後、山中をさまよい金武に下りる。食べるものはなく、1歳の弟を栄養失調で亡くした。

 働き手を失った家族の生活は苦しかった。高校進学を母に反対された仲里は策を練った。「弟と一緒にサトウキビ畑に入ってストライキをしたんだよ」

 息子の熱意にほだされた母は、徒歩で登下校することや畑を手伝うことを条件に進学を認めた。その条件を仲里は守った。

 「僕ははだしで登校した。学校の前で足を洗って下駄を履いた。学校を出る時は下駄をかばんに入れ、はだしで畑へ向かった」。下駄の歯を少しでも長持ちさせたかったからだ。

 高校卒業後、琉球大学を経て実業家となる。92年、県議に。議長だった2007年、高校歴史教科書の「集団自決」(強制集団死)の記述をゆがめる教科書検定問題で、沖縄中が揺れた。仲里は自身の戦争体験を語り、検定意見撤回を求める意見書を全会一致による可決に導いた。

 政界引退から3年余。仲里は健康のために畑作業を続けている。

 「レタスやホウレンソウを作って社協に配っている。雨で畑に行けなくなると体調が悪い。野菜が僕を呼んでいるんだ」

 日焼けした仲里の顔から笑みがこぼれた。

大城将保氏

 沖縄戦研究家で小説家の大城将保(81)は14期。07年の教科書検定問題の時、「集団自決」における日本軍の責任を追及し、論陣を張った。

 1939年、玉城村百名の生まれ。戦争中、熊本県に疎開した。帰郷し、百名初等学校に入学する。敗戦直後の百名には6千人余の避難民が集まっていた。「那覇、首里の避難民でいっぱいの大都会だった。ここが戦後の出発点だった」

 那覇に転居し、55年に那覇高校へ進学する。当時、県内の高校では文芸活動が盛んで、各校が競って文芸誌を発刊した。大城も文芸クラブに所属し、文芸誌に作品を投稿する文学少年だった。

 「米統治下で高校生が抱えていた鬱憤(うっぷん)を表現できるのが文芸だった。詩や短歌、小説の形で鬱憤を晴らすことができる唯一の場所が文芸誌だった」

 当時、高校の文学少年に影響を及ぼしたのが、琉球大学文芸クラブの「琉大文学」だった。「沖縄の人権が無視される時代、米軍の重圧に反旗を翻した『琉大文学』に私たちは救いを求めた」と大城は語る。後に「琉大文学」同人らが退学処分となる「第2次琉大事件」に衝撃を受けた。

 高校2年の時、周囲の生徒の間で進学熱が高まる中で息苦しさを感じた大城は1年休学した後、知念高校に転校する。「自分のふるさとに帰り、心が休まった」。そこでも文芸クラブに所属し、文芸誌「あだん」に作品を載せた。

 卒業後、大城は早稲田大学に進む。故郷から遠く離れた地で沖縄を見つめ直すようになる。在京の沖縄出身学生と共に沖縄返還運動にも飛び込んだ。

 73年帰郷。沖縄史料編集所に入り、「沖縄県史」の沖縄戦記録の編集に携わった。以来、沖縄戦研究がライフワークとなる。同時に「嶋津与志」の筆名で小説、戯曲を発表してきた。

 住民犠牲を強いた日本軍の責任を問い続ける。「スパイ視など敗戦の責任を県民になすり付けることは許されない」と大城。昨年、「『沖縄人スパイ説』を砕く 私の沖縄戦研究ノートから」を出版した。

(編集委員・小那覇安剛)
(文中敬称略)