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辺土名高校(2)寮生活は歌と仲間と 新島ユキさん、石川元平さん<セピア色の春―高校人国記>


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1950年ごろの辺土名高校。トタン屋根の校舎とかやぶきの寮(「創立40周年記念誌」より)

 音楽教師で「おかあさんコーラス」活動に長年取り組んできた新島ユキ(85)は辺土名高校の9期。歌の好きな高校生だった。

 1936年、国頭村辺土名で生まれ、辺土名国民学校に通った。幼い頃から歌に親しみ、辺土名に駐屯していた日本軍を慰問したこともある。「青年団の人に呼ばれて、『赤い牡丹(ぼたん)』の歌を歌った」。今も曲名や歌詞を覚えている。沖縄戦では山に避難し、ソテツを食べて飢えをしのいだ。

 辺土名中学校を経て辺土名高校に入学した。「体が小さいので、教室の一番前に座って先生と黒板を仰ぎ見ていた」と笑う。体は小さいが「声が大きかった」ことが新島の個性だった。

新島ユキ氏

 「誠…誠を以って己を持し 愛…愛を以って人に接し 勇…勇を以って事に当れ」という校訓を生徒は胸に刻んだ。「校庭に出て復唱したのを思い出す」。安月給で経済的に厳しい教師のために山でまきを集め、届けたこともあった。生徒が教師の暮らしを支えた。

 3年間、寮生活を送った。寮生の間で歌われた戯れ歌がある。「ジントーヨー節に乗せて『いかにやんばるでも、あなたと一緒なら花の都だよ』という替え歌を歌った」

 楽器が乏しい厳しい環境の中で音楽を楽しみ、歌った。同級生や先輩と共に北部3村を回って歌を披露したことがある。「かやぶきのむらやー(公民館)で私はレコードの代わりに『目ン無い千鳥』を歌った。娯楽のない時代だった」

 54年、音楽教師を目指し、琉球大学教育学部に入学。母校の恩師、真栄田邦男の勧めで58年、辺土名高校で教員の道を歩み始める。「自分が十分にできなかった音楽をこの子たちに教えたい」という思いで生徒と向き合った。

 教職と並行して72年から「おかあさんコーラス」に関わる。辺土名高校の同僚だった夫、新島義龍の「君にできることは、これだよ」という後押しで松川小学校PTAによる「ひばりが丘女声コーラス」の結成に参加した。80年、「那覇ママさんコーラスまつり」のスタートにも尽くした。

 現在は「全沖縄おかあさんコーラス連盟」の相談役。歌うおかあさんの輪の中に新島の姿がある。

石川元平氏

 沖縄県教職員組合の元委員長で1968年の主席公選で屋良朝苗の秘書だった石川元平(83)は12期。「寮で同じ釜の飯を食った仲間たちとの思い出がいっぱいある」と語る。

 38年、東村有銘の生まれ。54年に辺土名高へ入学し、寮で暮らす。かやぶきで電気、水道はなかった。

 辺土名高の土地柄を歌詞に織り交ぜた寮歌があった。

 「波原(ばはら)原頭風清く/大海高嶺前にして/ここに燦たる地を占めて/希望の朝日仰ぎつつ/我が辺寮はそびえ立つ/これ英才の温床ぞ」

 寮長も務めた石川は「かやぶきの寮なのに『我が辺寮はそびえ立つ これ英才の温床ぞ』と歌った。辺土名高校の歴史や校風と合致している」と語る。当時、辺土名高の大学進学率は高く、スポーツでも活躍した。母校への誇りが歌詞ににじむ。

 寮の食事は質素だった。「箱買いしたそうめん、いわし缶詰に野菜。たまに出るカレーライスが最高の食事だった」。夜中、学校の農園から取ってきた野菜や缶詰で料理し、空腹を満たしたこともあった。

 忘れがたい先生とも出会った。台風で寮が倒壊しそうになり、ずぶぬれになって生徒の安否を気遣った校長の上地安林、沖縄教職員会などの招きで来沖した矢内原忠雄東大総長の講演に誘ってくれた真栄田邦男らである。「僕は生徒会役員で真栄田先生は生徒会の顧問だった。温かい言葉で激励してくれた矢内原総長の講演は印象に残っている」

 在学中、米軍の強制土地接収にあらがう「島ぐるみ闘争」に沖縄は揺れていた。石川はその動きを知らなかった。「屋良先生は『沖縄土地を守る協議会』の会長として、抵抗のシンボル的な存在だった。辺土名高校でその情報に接することができなかったのは残念だ」

 60年、沖縄教職員会に入り、教公2法阻止闘争を体験した。辺土名高校の先輩で沖縄人権協会理事長だった福地曠昭らと共に屋良朝苗会長を支えた。「私は『屋良学校』の門下生だ」と石川は語る。

(編集委員・小那覇安剛)
(文中敬称略)