特定地域に多い「○○さん」 その理由は? <J1グランプリ>


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地方部記者が担当地域のイチオシを紹介する「J(地元)☆1グランプリ」。沖縄の名字は「比嘉」「金城」「大城」が多い傾向にありますが、皆さんが住んでいる地域で、特定の名字の方が集中して住んでいることはありませんか。なぜ、特定の地域に特定の名前が多いのか。今回はそこに焦点をあてて背景を探ってみました。「いちゃりばちょーでー(出会えば皆きょうだい)」と思っていたら、本当に親戚・きょうだい、ということもあるかもしれません。名字から見えるその土地の歴史や文化について探ります。

大宜味村塩屋「宮城さん」

表札の前に立つ宮城辰德さん=4月28日、大宜味村塩屋

プレビュー「屋号」由来の説も

明治安田生命保険が2018年に発表した名字に関する調査によると、県内に占める宮城さんの割合は2.6%で、県内4位だったが、特に宮城さんが集中している地域がある。大宜味村の塩屋集落だ。

塩屋公民館によると、10年前に宅地分譲した塩屋湾外の埋め立て地「結の浜」地区を除くと、名簿表に記載されている中では175世帯中、74世帯が宮城さんだという。全世帯の42.2%を占める。塩屋区の知念章区長は「実際はもっといるはず。石を投げたら宮城に当たると言われるほどだ」と笑う。

宮城辰德さん(75)は父親も母親も妻もみんな塩屋出身の宮城姓。「昔は集落内での結婚はよくあったので、親戚同士でもあったのではないか」と推測する。

宮城宏義さん(86)は「明治まで姓は使われなかった。祖先に(屋号などで)宮城や島袋を名乗る人が多くそれを姓として塩屋の人が使うようになった」との見方を示した。

大宜味村長の宮城功光さん(70)も塩屋出身。「地元の小学校の同級生に宮城は大勢いた。屋号や下の名前で呼ぶことが多かった」と振り返る。「塩屋は『ティー小フスメ』(屋号・山川屋)と呼ばれる人物を祖先に持つ人が多い」と指摘。「塩屋誌」の山川屋系統図によると、18~19世紀にかけて宮城大屋子、宮城仁屋と呼ばれる人物が確認できる。塩屋湾に浮かぶ宮城島との関連は不明だ。

(長嶺晃太朗)

宜野湾市長田「米須さん」

欽氏の米須門中の本家である米須良清さん。親戚付き合いは深い=4月26日、宜野湾市長田

プレビュー先祖は首里の士族

宜野湾市の南東にあり、市内最多の約1万人が住む長田区。地域を巡ると「米須」の表札が多いことに気付く。名前に「清」の字があり、同姓同名も多い。身内は屋号などで区別するが、聞くと請求書が誤配達されることもあるそうだ。

市教育委員会がまとめた「ぎのわんの地名 内陸部編」をめくると、長田で最も多いのは「欽氏(きんうじ)の米須一族」とある。長田は琉球王国時代から明治期、首里や那覇の士族が農村へ移動してつくった屋取(ヤードゥイ)集落の一つ。長田の東隣にある中城村も屋取が多い。

中城村教委編集の「村の屋取」などによると、米須一族の先祖は首里士族だった。氏の「欽」は中国との仕事で使った「唐名(カラナー)」で、米須に続く「清」が代々続く「名乗り頭」。名の継承に一族の誇りもにじむ。

年代不明だが、4世代目が摩文仁間切(現糸満市)の米須を領有する脇地頭(わきじとう)に任じられ、米須姓を使い始めた。5世代目が中城村へ、子孫が長田などへ移った。長田は降雨で泥だらけになる土地だったとされる。米須一族らが開墾し、今の長田の礎を築いたとも言えそうだ。

一族本家の米須良清(りょうせい)さん(58)=市職員=は「苦労し頑張ったんだろうな」と先祖に思いをはせた。自宅に先祖の仏壇を置く屋敷があり、作物の収穫祭ウマチーの時などに親戚が集う。米須さんを通し、沖縄の歴史や親戚の強い絆を垣間見た。

(金良孝矢)

那覇市牧志「高良さん」

牧志の村井(むらがー)を紹介する高良實さん(左)と息子の勇太さん=3日、那覇市牧志

プレビュー小禄から移住し開拓

那覇市に分布が集中している代表的な名字の一つが「高良」だ。「沖縄県姓氏家系大辞典」によると、1989年の県内電話帳に登録されている高良さん1399件のうち、788件が那覇市に登録されている。

高良さんは旧小禄村(そん)地域、特に字小禄に多く、牧志にも多い。琉球王国時代の1666年に牧志村を開拓した高良筑登之(ちくどぅん)親雲上(ぺーちん)らは小禄村(むら)(現在の字小禄)から移住したと伝えられる。最初に移住した元家(むーとぅやー)(本家)は六つ明らかになっており、高良、嘉数などの姓を名乗っている。これらの姓は古くからの集落が残る牧志2丁目に多く見られる。

開拓当時、牧志周辺には民家がなく、追いはぎ(強盗)が出没した。王府は村をつくれば治安が良くなると考え、人口の多かった小禄村から移住させたという。

戦後、国際通り周辺は沖縄随一の繁華街に発展した。だが路地に入ると戦前の静かな牧志集落の面影が感じられる。

牧志の婦人会や自治会は開拓時に発見したと伝えられる村井(むらがー)(井戸)などを今も拝んでいる。

牧志に住む高良實(みのる)さん(66)の祖母フジさんは元家の一つ「越来(ぎーく)(屋号)の高良」の出身だ。實さんは観光ガイドとして地域の歴史を伝えていた。「牧志には地域の伝統がぎりぎり残っている。子の世代にも継承したい」と話した。

(伊佐尚記)

八重瀬町志多伯「神谷さん」

自宅の表札の前で、戦後の歴代区長の一覧表を持つ神谷良明区長。表の赤い部分が神谷姓の区長だ=4月30日、八重瀬町志多伯

プレビュー苦難越え、芸能守る

「神谷、神谷、神谷。あ、こっちも神谷だね」。八重瀬町志多伯の集落を指さしながら、にこやかに案内する神谷良明区長。志多伯には現在、約350世帯千人余が暮らし、そのうち約160世帯の600人が神谷姓。いったいなぜ、これほど神谷さんが多いのか。

区長のおじで、志多伯の歴史に詳しい神谷明徳さん(73)に神谷の歴史について聞いた。明徳さんいわく、神谷の始まりは約350~400年前の琉球王国時代にさかのぼる。

幸地按司の次男として志多伯で誕生した幸地子(こうちし)が「神谷の元祖」。その後、琉球処分や沖縄戦など、先祖は苦難の歴史を乗り越えながら志多伯で暮らしを営んできた。明徳さんは先祖が志多伯に根を張り続けた要因の一つとして「湧き水が豊富で農作がしやすい環境だったからではないか」と分析する。

獅子舞や十五夜など伝統芸能が盛んな志多伯。地域行事には自然と多くの神谷さんが集う。時には6人の同姓同名がいたことも。そんな時は下の名前に屋号を付け「モーヌシチャー(森の下)の○○」などと呼び合う。戦後の1945年以降、歴代の区長一覧には神谷の名がずらりと並ぶ。現在の良明区長を含め、73人中延べ48人が神谷さんだ。

良明区長と明徳さんは神谷姓を「誇りだね」と語りつつも「神谷だけでなく、他の名字の人たちもみんなで行事に取り組んでいきたい」と話し、志多伯の結束の強さを見せた。

(照屋大哲)

名字の8~9割が地名

本土で暮らしたことのあるウチナーンチュなら、「自己紹介をしても一発で名字を聞き取ってもらえない」という経験をしたことがあると思います。名前を覚えてもらえる確率も高いですが、同郷であれば、「沖縄ですね」と見破られるという“メリット”もありました。

琉球王国時代は、士族以外は名字はなかったそうです。琉球処分後は、名字を持つことが許されたそうですが、その際に地名や屋号を名乗る人が多かったとのこと。一説によれば、沖縄の名字の8~9割が沖縄の地名と一致するそうです。皆さんの名字も、県内に同じ地名がありますか。 (亜)