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那覇商業高校(8)島から那覇へ…感じたカルチャーショック 島仲ルミ子さん、大城友宏さん<セピア色の春―高校人国記>


この記事を書いた人 Avatar photo 琉球新報社
1960年代の職員室の風景(「那覇商百年史」より)

 那覇商業高校が沖縄唯一の商業学校だった1960年代半ばまで離島からも多くの生徒が集まった。

 日本産業カウンセラー協会沖縄支部相談役の島仲ルミ子(75)は竹富町出身の11期。2006年1月から1年間、県教育委員長を務めた。

 生まれは台湾・基隆である。「台湾からの引き揚げ船に乗った時、母が産気づいて私が生まれた」。しばらく台湾で過ごした後、家族で竹富に戻った。

 「女ばかりの6人きょうだいで、私は4番目。うちは貧乏で親の手伝いをしなければならなかった。父が海に潜って捕った魚を私と姉が売り歩いた。そうしなければお金がなかった」

 厳しい生活の中で向学心を抱き、高校進学を望んだ。3人の姉は中卒で働いていた。「那覇商業を出れば仕事ができると思った。条件が許せば大学にも行きたかった」と語る。

島仲 ルミ子氏

 61年、那覇商業に入学した。那覇市牧志で暮らす姉家族と同居し、お手伝いをしながら学校に通った。制服を着て、公設市場で買い物をするのが日課だった。

 言葉にカルチャーショックを受けた。「竹富ではあまり方言を使わなかった。学校では離島出身の生徒も皆、那覇の方言を使う。言葉が通じないなと思った」

 英会話クラブや英文タイプクラブに所属した。学校周辺にあった外国人住宅で英会話を学んでいた友人もいた。ペンパルで文通をしたペンフレンドとは今も関係が続いている。

 卒業後、大手家電メーカーの代理店に就職。東京に本社を置くビジネスコンサルタント会社の支店にも務めた。その後、沖縄電子計算センター(現OCC)に1966年の設立時から20年勤めた。「経理、人事、社員教育、広報など、さまざまなことをやった」

 これらの経験を生かし、企業・団体の教育訓練研修の分野で活動する。94年には日本産業カウンセラー協会の沖縄分会を設立した。沖縄における産業カウンセラーの先駆者だ。

 人材育成、学びの場の確立に力を注いできた。「沖縄の人がお金を使わずに勉強できるシステムが必要」と語る。今も向上心を抱き続ける。「これからでも大学に行きたいですね」

大城 友宏氏

 同じ11期で、沖縄ツーリスト元常務の大城友宏(75)は伊江島の出身。しかし、伊江島で生まれたわけではない。「沖縄戦で島民が米軍に捕らわれて渡嘉敷と慶留間に移された。僕は慶留間で生まれ、2年後に伊江島に戻った。島には米軍の飛行場が造られていた」と語り、こう付け加える。「伊江島の歴史は沖縄の縮図だ」

 伊江村立西小学校を卒業し、伊江中学校で学んだ。そろばんに励む生徒だった。父は漁師。米軍機のジュラルミン製燃料タンクで造った船に乗って海に出た。

 「僕も15歳まで漁師だった。高校入学で島を出る前日まで海で働いた。僕が高校に行かなければ漁師を継いでいた」

 村の育英資金を得て、那覇商業に入った。入学式の時、付き添いの父と一緒に初めて那覇に来た。那覇高校の定時で学んでいた姉がお手伝いをしていた弁護士の家で暮らすことになった。

 「バス停の場所が分からなかった。水洗トイレの使い方も知らない。15歳のカルチャーショックは大きかった」

 学校では3年間、英文タイプクラブに所属した。思い出に残るのがスポーツ競技の応援。「先輩の応援は後輩の義務。何十曲もの応援歌を覚えた」と語る。

 64年に卒業し、沖縄ツーリストに入社した。創業6年の若い会社だった。旅行業のことを知らなかった大城はがむしゃらに働いた。「経理の仕事をしながら添乗員もやり、夜通し働いた。きついけど、それが当たり前だと思っていた」と振り返る。

 90年代以降、東京支店長を長く務め、在京沖縄県出身者とのネットワークを築いた。関東沖縄経営者協会を引っ張った那覇商業の先輩たちの知遇も得た。「沖縄出身者のために尽くした仲田清祐さんや仲本潤英さんです。とてもお世話になった」

 県出身者、那覇商卒業生の縁を大切にしてきた大城は現在、那覇商業高校同窓会の副会長を務めている。

(編集委員・小那覇安剛)
(文中敬称略)