復帰前に次々と外資進出計画…日本と琉球政府、「国益」と「県益」の対立


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 沖縄の日本復帰時には、外資規制を巡り、日本政府と琉球政府の意見が衝突する場面が度々起こった。背景にあったのは「国益」と「県益」の対立。外資の脅威から国内産業を守りたい日本政府と、米軍基地経済に過度に依存する体質から脱却し、自立経済を目指す足がかりが欲しい琉球政府の思惑が激しく衝突した。

地主代表と賃貸借契約を行うガルフ社沖縄地区責任者のジョン・メイ氏=1967年8月2日、東急ホテル

 日本復帰の機運が高まりつつあった1966年、米国の石油会社ガルフが沖縄での石油貯蔵施設の建設方針を発表。カイザー、カルテックス、エッソの米3社もこれに続き、石油精製所の建設を企図して琉球政府に外資導入免許(外免)を相次いで申請した。

 70年には、世界最大のアルミ精錬会社、米アルコアが沖縄への進出に名乗りを上げた。約1億ドルの投資による14万トン規模のアルミ精錬所と発電所の建設を提案し、琉球政府に外免を申請した。

 これら大手資本の参入によって、製造業の雇用は「一気に1万人近くの増加が見込めた」(琉球政府関係者)という。琉球政府はいずれの会社にも外免を与える方針だったが、ここで障壁となったのが、日本政府で外資政策を差配する通商産業省だった。

 通産省は、これらのプロジェクトをいずれも復帰前の「駆け込み投資」と判断。日本企業の権益保護のために計画阻止に動いた。石油4社には、外資法に沿って外資比率を100%から50%に引き下げるよう要求。アルコアに対しては、同省の後押しで本土のアルミ精錬5社に合弁会社を設立させ、「20万トンの精錬工場建設計画」という“対抗プラン”を練り上げてけん制した。

 この結果、石油精製プロジェクトは2社が進出をやめ、残り2社が通産省の提示した条件をのむ形で沖縄に合弁会社を設立することで決着。計画は当初の4分の1に縮小した。一方のアルコアは、沖縄進出を断念し、本土の5社連合による計画も立ち消えになった。

 沖縄の日本復帰時、通産省で外資政策に関わった細田博之氏は「石油資本に支配されるという危機感があった」と明かした。沖縄の振興よりも国内産業保護を優先させる、当時の政府の外資への強い警戒感を物語る証言だ。

 (安里洋輔)