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沖縄勢甲子園100勝の系譜 戦後復興、本土並み…思い重ね 弱小から強豪県へ


この記事を書いた人 Avatar photo 琉球新報社
第71回選抜大会準決勝でPL学園を破って決勝進出を決め、喜びを爆発させるエース比嘉公也(中央)ら沖縄尚学ナイン=1999年3月、甲子園球場

 県勢の甲子園初勝利から58年の時を経て、沖縄尚学が16日、100勝目の新たな歴史を刻んだ。当初は弱小だった沖縄勢は徐々にチーム力を高め、一つずつ勝利を積み重ねてきた。沖縄尚学は次戦、大会第9日の22日に岩手代表の盛岡大付と対戦する。沖縄の高校球界発展に尽力した関係者への感謝を胸に、101勝目に挑む。

■全国を知る1勝

 県勢が初めて甲子園の土を踏んだのは1958年夏の第40回記念大会。首里の仲宗根弘主将が「正々堂々と戦います」と力強く宣誓し、大会が開幕した。

 初出場から5年。63年夏の第45回大会2回戦で、首里が日大山形に劇的な逆転勝ちを収め、歴史に残る白星を挙げた。「校旗掲揚を焼き付けようと思ったけど涙で全然見えなかった」。2―2の六回から登板し勝利をけん引した又吉民人さん(75)=県野球連盟会長=は、鮮明な記憶を呼び起こす。

 16日の沖尚の初戦は自宅で見届け、「自分でも忘れていたけど、中継で首里が紹介されて思い出した。本当に貴重な1勝だったんだ」と語る。その年の春の第35回大会1回戦では、PL学園(大阪)に当時の選抜ワースト記録21三振を喫し0―8の大敗。そこからつかんだ県勢の初勝利は「あの1勝は、沖縄も全国大会で勝てると知らしめることができた。遠かった本土を身近に感じられた勝利だった」と振り返る。

沖縄悲願の1勝を果たした首里高ナインの健闘をたたえる祝賀会=1963年8月21日、首里高校

■勝利の系譜

 90、91年の夏の大会は、故・栽弘義監督率いる沖縄水産が2年連続の準優勝を果たし、99年春は、沖縄尚学がエースの比嘉公也(現同校監督)を擁し県勢初の頂点にたどりついた。2010年には興南が史上6校目の春夏連覇を達成し、沖縄の高校球界を一気に全国へ知らしめた。

 「100勝に至るまでには、いろいろな先輩方の協力や支援があった。それを忘れないでほしい」。県高野連の安里嗣則・学識経験者評議員(81)は、県内の高校球界発展は「高校野球の父」と称され、戦後の高校野球の発展に奔走した日本高野連元会長の故・佐伯達夫氏の功績を強調する。

 戦後、米軍統治下に置かれ、本土に後れを取っていた沖縄の高校球界発展を願い「沖縄に足を運び備品をたくさん寄贈してくれたり、選抜に招待したりと数え切れないほどの恩がある」と言う。野球を通じ沖縄の復興を願っていたとし、当時の何もなかった環境を知るからこそ「県内のチームが全国と渡り合えるようになった。100勝目を飾るとても良い試合だった」と話す。

■新たな歴史

 県勢50勝目を飾り、初優勝を成し遂げた少年が、母校の沖縄尚学を率いて100勝目を飾った。県高野連の川畑三矢会長(59)は「公也監督が、先輩方が重ねてきた勝利をしっかりつないでくれた」と感無量の様子だ。県大会で見た沖縄尚学ナインよりも「しっかり調整してさらに一皮むけてきた。次もきっとやってくれる」と確信、深紅の優勝旗が再び沖縄に渡ることを期待する。

 比嘉監督は初戦勝利の後、「一人で100勝したわけではないが、(節目の白星)なんとか勝ち取りたかった」と、初戦を理想的な展開で勝利したことに納得の様子だった。次戦も「丁寧な試合を心がけていくだけ」。新たな1勝を刻むことを誓った。
 (上江洲真梨子)