那覇大綱挽の復活から50年 保存会の兄弟、コロナ後の若手活躍期待


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第1回那覇大綱挽から毎回参加している比嘉稔さん(右)、晃さん兄弟=7日、那覇市泉崎

 那覇大綱挽が沖縄戦を乗り越えて1971年に復活してから、10日で50年を迎えた。那覇大綱挽保存会特別顧問(元会長)の比嘉稔さん(80)と弟で元副会長の晃さん(75)は、第1回から毎回、旗頭などに参加してきた。昨年と今年は新型コロナウイルス感染拡大防止のため中止されたが、稔さんは「大綱挽は那覇人(なーふぁんちゅ)の誇りだ。なくすわけにはいかない」と後世へ受け継がれることを願う。

 71年の大綱挽は当時の平良良松市長が市制50周年記念として計画した。10月10日に開催したのは、44年の10・10空襲があった日に平和を祈るという趣旨や、過去の統計で晴天が多かったことなどが理由だ。戦前の経験者を探し、日本復帰直前の混乱期に市民が一致団結して復活させた。

 稔さんと晃さんの伯父で空手の師匠でもある比嘉佑直(ゆうちょく)さんは、戦前の大綱挽で旗頭を持った数少ない経験者。71年に大綱挽実行委員会の理事長を務め、友寄英彦(えいげん)実行委員長らと共に尽力した。「どこの誰は旗頭が上手だったとか、佑直先生が戦前の大綱挽について語る時は熱かった」と稔さんは振り返る。

 佑直さんの勧めで、稔さんと晃さんは空手道場やトレーニングジムの仲間と一緒に旗頭に参加した。いつもは厳しく空手を指導する佑直さんだが、「空手の稽古は早く終えて旗頭の練習に行って来い」とせかすほど、旗頭への思いは強かった。当日、稔さんは旗頭行列の進行役を務め、晃さんは泉崎の旗頭を持った。勇壮な旗頭行列や大綱、20万人余の参加者に心が震えた。74年からは西一番の旗頭を持つようになった。

 晃さんは85年に県外企業に就職したが、佑直さんは「大綱挽の時は帰って来い」と約束させた。それから99年に帰郷するまで毎回、大綱挽に駆け付けた。阪神淡路大震災が発生した95年には社宅が半壊したが、大綱挽への参加は欠かさなかった。晃さんは「好きだから続けられた。先生との約束もあったしね」と笑う。

 稔さんは綱の上で指揮を執る綱方(ちなほう)や旗持を60歳まで続け、その後も運営に関わる。晃さんは今でも旗頭を持つことがあるという。2人は中止を残念がりながらも「若手が頑張っている。今後も発展していくと思う」と期待する。稔さんは「いつでも参加できるように体調を整えておくよ」と笑顔を見せた。 (伊佐尚記)