沖縄からボリビアへ「空白の移民史」いま埋めよう 大水害や疫病、体験記録呼び掛ける


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「体験を書き残してほしい」と呼び掛ける渡邉英樹さん(右)と耳を傾ける移民体験者ら=9日夜、那覇市安里のホテルロイヤルオリオン

 琉球政府の南米ボリビアへの計画移住で家族と移り住んだ人や、現地で生まれ沖縄へ戻った人たちが、自身の移民体験を書き残すことを検討している。日本ボリビア協会相談役の渡邉英樹さん(80)は「ボリビアを離れた人たちの体験は、これまであまり発信されてこなかった。親や自身の体験をぜひ書き残してほしい」と呼び掛ける。

 1954~69年に計画移民は3200人を超えたが、自然災害や疫病に翻弄(ほんろう)され、同国にとどまったのは約1割のみ。沖縄の移民史の中で、空白とも言えるボリビアを既に離れた人たちの体験談は貴重な証言となりそうだ。

 沖縄では戦後、土地不足と急激な人口増加が社会問題化した。そこで進められたのがボリビアへの計画移民だった。「コロニア・オキナワ入植50周年記念誌 ボリビアの大地に生きる沖縄移民」(オキナワ日本ボリビア協会)によると、琉球政府の計画移民団は、第1次~第19次までで計3229人。しかし、定住率は9・84%にとどまる。

 当初、移住地に指定された原生林の中にある「うるま移住地」では謎の伝染病が発生。グランデ河の氾濫で移住地は水没した。移住者らはこの地を放棄し、移動を重ね、56年に現在の「コロニア・オキナワ」へ移った。しかし68年に、ここも大水害に見舞われた。

 59年の第7次移民で、9歳で家族とボリビアに渡った宮城安夫さん(72)=宜野湾市=は大水害を体験した。「朝、学校に行く時にはなかった川の水が、帰る時にはあふれていて家に帰れなかった。まるで津波のようだった」。大水害の後、家族で第2移住地に移ったが、干ばつで米は枯れ、芋の一種キャッサバで飢えをしのいだという。多くの移民は不作や営農の失敗などでボリビアを離れた。宮城さんも大阪や東京などで働いた後、70年に沖縄に戻った。

 沖縄ボリビア協会副会長の上間洋子さん(68)=沖縄市=も大水害の後、家族がばらばらになった1人。73年に沖縄へ戻った。

 4歳で家族と移住した松本昇さん(67)=大宜味村=は、人力で木を切り倒すなど開拓の過酷さを語る。それでも「大自然の野山での遊びが一番楽しかった」。大城栄さん(68)=糸満市=も「鹿やイノシシを仕掛けで捕ったね」と目を細めた。

 大城さんはボリビアで14年間過ごした後、ブラジル、大阪を経て74年に沖縄へ。大阪では偏見や差別に直面した。現在はタクシー運転手として観光客を戦跡に案内する。自身も沖縄戦を学ぶうちに「歴史を伝えていくのは大事だ」と感じるようになったという。

 このほか、幼少の頃にボリビアに渡った屋宜盛弘さん(62)=恩納村=と、現地で生まれた県系2世の新城安彦さん(61)=八重瀬町、伊敷明さん(62)=糸満市=も思いを語った。
 (中村万里子)