戦争で失った教え子「どう償えば」…シベリア抑留を経験した元教員 家族が証言を冊子に


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與那嶺仁助さん

 太平洋戦争末期にソ連が旧満州(中国東北部)などの日本兵や民間人の身柄を拘束し、シベリアで強制労働させた「シベリア抑留」経験者で、元教員の故・與那嶺仁助さんの長男剛さん(68)と次女幸代さん(65)がこのほど、生前に撮影された仁助さんの証言映像を文字に起こし、冊子にまとめた。過酷な労働、沖縄戦で亡くなった教え子に対する償い―。父の言葉を子が紡ぎ、後世へ伝える。(稲福政俊)
 

具志頭国民学校

 仁助さんは南風原町宮平出身。1944年3月に沖縄師範学校を卒業予定だったが、半年繰り上げて卒業した。同時に具志頭国民学校で高等2年(現中学2年)の担任になり、23人を教えた。5カ月間の教員生活を経て44年2月に徴兵された。二度と帰れないと覚悟し、鹿児島行きの船に乗った。仁助さんは次のように証言している。

 「水産学校の小舟が通りかかった。南風原出身の先輩先生がいたので、小さな紙に手紙を書いて丸めて投げ込んだ。内容は『もう会えないと思うが、あなたの分も頑張ってくるから』のような」
 

捕虜 厳寒の労働

 入隊後は旧満州ハルビンの関東軍に配属された。奉天、大連へと南下し、45年8月15日の玉音放送は大連で聞いた。自決を決意したが人数がそろわず、実行されなかった。ソ連に物資を引き渡した後は帰還すると聞かされたが、なぜか移動先は内陸イルクーツクだった。気付かぬ間に捕虜となり、近隣のスリュジャンカで労働を強いられた。気温マイナス19度での屋外労働。食事は硬い黒パン一切れと道端の葉っぱのスープだった。

 「まずは寒さ、作業のきつさ、食べ物ですね。そしてもう一つ大きかったのは語る人。知らないものだけの集団でしょう? いつ帰れるのかも分からない。孤独感というものは大変なものでしたよ」

 ある日、ソ連から新聞を配れと命じられた。天皇を奴隷扱いする内容だった。配らずに寝台の下に隠したのがばれてしまい、営倉(懲罰房)に入れられた。

 「はっさみよー、大変でした。毛布1枚しかくれなかったので寒くてね。もうここで凍え死んでしまうんじゃないかと思った」
 

5年後の帰郷

 抑留生活から2カ月後、日本に帰還できるチャンスがあった。だが、長野県出身の先輩に4人の子どもがいると聞き、順番を譲った。2、3カ月後には自分も、と思っていたが、実際に帰れたのは4年後だった。引き揚げたのは京都府舞鶴市。船の中では「ふるさと」を歌い続けた。

 「本当に生きては帰れないと思っていましたからね。凍死したり戦死した友人たちの分も、これから頑張ろうなあと言い合ってやっていた」

 シベリアに抑留されていた與那嶺仁助さんが沖縄に戻ったのは1949年夏だった。徴兵されてから5年がたっていた。沖縄に関する軍からの情報は、45年6月の「わが軍は現在運玉森にいます。敵は中城城址(し)。激戦中」というのが最後。家族は全滅したと思っていた。
 

何度も片道2時間

與那嶺仁助さんが生前証言したシベリア抑留体験を、子どもたちがまとめた冊子

 両親も仁助さんが死んだと思い、位牌(いはい)をつくっていたという。お互い死んだと思っていた親子の再会。「もう言葉もなかった」。朝から晩まで多くの人が家を訪れ、帰還を喜んだ。しかし、歓迎ムードをよそに、仁助さんは気が沈んでいた。徴兵前に具志頭国民学校で教えた23人の生徒のうち、10人が戦争で亡くなっていた。

 具志頭国民学校で教員を務めたのは短い間だったが、宿直を志願して生徒と寝食を共にし、濃密な関係を築いた。朝6時半に起きて生徒と行進し「米兵、撃滅!」と声を掛け合った。朝晩は天皇の御真影を納めた奉安殿を一緒に拝んだ。

 「私は子どもたちにあのような教育をして、どう償ったらいいのか。これから生きる道は、彼らに許してくれと、とにかくすまなかったと、その道を歩くのが自分に課せられた義務であると思いました」

 皇民化教育に加担したという自責の念にさいなまれ、自宅のある南風原町から片道2時間をかけて具志頭まで歩き、学校があった場所で一人一人、生徒の名前を呼んで合掌した。頭を丸め、何度も具志頭に通う仁助さんを、家族は何も言わずに見守った。

 1カ月後、当時、知念高校の校長だった屋良朝苗氏(後の主席、知事)に教員になるよう請われた。最初は断ったが、何度も訪ねてくる屋良氏に根負けし、再び教壇に立った。その後は琉球政府文教局指導主事や小中学校の校長を歴任し、定年退職まで教育一筋だった。


生前語らず映像から紡ぐ 長男剛さん、次女幸代さん

與那嶺さんの戦争体験を冊子にまとめた長男の剛さん(右)と次女の幸代さん=1月23日、南風原町宮平の自宅

 仁助さんは2007年11月、84歳で亡くなった。生前、シベリア抑留や帰還後の出来事について、子どもたちには多くを語らなかった。証言映像は県平和祈念資料館の事業で作成されたものだ。

 仁助さんが亡くなった後、3人の子どもは舞鶴引揚記念館を訪れ、父のシベリア抑留を再確認した。これがきっかけとなり、次女の幸代さんが証言映像を文字に起こし、長男の剛さんが徴兵後の道のりを地図に落とし込んだ。冊子は記念館に寄贈する予定だ。

 幸代さんは「父は『子や孫に生かされている』と常々言っていたが、父が生き延びたから私たちがいるのであって、逆だと思っていた。でも今はその言葉がよく分かる。父は何度も死を覚悟し、家族を持つ生活が来ると思っていなかった。その思いが言葉になったのだろう」と語る。

 仁助さんの証言映像は「『命どぅ宝』は素晴らしい言葉だと思います」と締めくくられていた。