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玉城デニー知事「もてなかった」ロックバンド…母子家庭、常に仲間が 前原高校(1)<セピア色の春―高校人国記>


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玉城デニー氏

 玉城デニー(62)は1959年、与那城村(現うるま市)で生まれた。米海兵隊員だった父は帰国し、実母と養母に育てられた。

 「おふくろはうちなーんちゅ。言葉も食べ物もうちなーだ」。玉城はうちなーんちゅとして育ち、しまくとぅばも上手だ。それでも父が米国人という理由でいじめに遭った。

 「中学の反抗期、アイデンティティーが揺らいだ。ハーフであることは自分では解決できない。とても悔しかった」

 そんな玉城を支える友人たちがいた。「誰に何と言われても『デニーや、デニーどぅやる』と言ってもらえた。自分は自分でいい。当たり前だ」。励まされ、徐々に自尊心を取り戻していった。

 音楽も心の支えとなった。友人に教えてもらい、家にあった古いギターでフォークソングを弾いた。米ラジオ放送FENで聴くのはハードロックだった。

現在の前原高校の校舎

 75年、前原高校に入学。バレーボール部に入部したが半年で退部した。「身長が低く、練習についていけなかった。髪も伸ばしたかった」。数カ月後、応援団を組織するリーダー部に入部した。先輩の許可を得て、長髪にした。

 1年の春休み、中部工業高校に通う同級生や先輩が組むロックバンドに参加した。練習中に飛び入りで歌ったことがきっかけだった。「メンバーに『顔が外人だし、歌えるからボーカルをやれ』と言われた。そこからロックにのめり込んでいった」

 女生徒の人気が集まると思ったが期待は外れた。「もてなかったな」と笑う。

 卒業後、東京の上智社会福祉専門学校で働きながら学んだ。「家を離れたかった」という思いもあった。3年後に帰郷し、中部地区老人福祉センターで働いた。人気のラジオ番組を担当し、活動の幅を広げていった。リスナーとの対話を通じて新たな目標が生まれた。

 「ラジオを聴いてくれた人から『励まされた』『勇気をもらった』という話を聞かされ、人の役に立つことができないか考えるようになった」

 自治・分権を学ぶ勉強会に参加し、視野が広がった。周囲から議員として活動するよう勧められ、玉城も政治への関心を抱くようになった。2002年、沖縄市議となり、09年には衆院議員に転じた。

 18年、翁長雄志知事の死去に伴う知事選に出馬し、当選した。それから3年余が過ぎた。「非常に責任の重い仕事であることは当然だが、本当にやりがいがある。そのことを改めて思っている」

 戦後沖縄の歩みを象徴するような出自。母子家庭で育ち、裕福ではなかった青年期。そんな玉城の周囲には仲間がいた。「ずっと友達に助けられてきた。そういう人生です」

 卒業アルバムに載った玉城の表情は柔らかい。2人の母や友に支えられ、音楽に打ち込んだ高校生活への満足感が漂ってくる。

(文中敬称略)
(編集委員・小那覇安剛)


 

 【前原高校】

 1945年11月 開校。高江洲初等学校校舎で授業を開始
 46年3月 与那城村(現うるま市)西原に移転(現与勝中学校)
 58年6月 具志川市(現うるま市)田場の現在地に移転
 73年3月 春の甲子園に出場。夏の甲子園にも出場(8月)
    5月 若夏国体で女子ソフトボール、男子バレーボールが準優勝
 80年 定時制が閉課程
 96年 夏の甲子園に2度目の出場