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教科書を写して英語習得、バレーで活躍した平安座出身者…安里祥徳さん、奥田良正光さん 前原高校(2)<セピア色の春―高校人国記>


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前原高校の2期生=1947年3月(奥田良正光氏提供)

 前原高校の創立は1945年11月。具志川村(現うるま市)の高江洲初等学校(現高江洲小学校)で授業を始めた。沖縄バヤリース元会長の安里祥徳(92)は2期。県立第一中学校から編入した。「楽しかったけれど、いつも空腹だった」

安里 祥徳氏

 1930年にペルーで生まれ、37年に中城村(現北中城村)喜舍場に引き揚げた。43年に県立一中に入学した安里は戦争に巻き込まれる。45年、一中鉄血勤皇隊に動員される。本島南部の戦場をさまよった末、「捕虜となり日本の再建に尽くしなさい」と日本兵に諭された安里は、摩文仁で捕虜となる。ハワイ、米サンフランシスコの収容所で過ごした後、45年秋に帰郷。前原高校の開学を知る。

 「一中の同級生、花城康明さん(元沖縄市議会議長)から開学したばかりの前原高校に通っていることを聞かされた。花城さんも一中鉄血勤皇隊の隊員だった」

 花城と会った数日後、前原高校のある高江洲初等学校で手続きをし、3年への編入が決まった。

 46年3月、前原高校は与那城村(現うるま市)西原の米軍駐留地跡に移転する。コンセット(カマボコ型)兵舎が教室となった。寄宿舎で暮らした安里は空腹に悩まされ、週末は喜舍場の実家に戻った。「家でイモをたくさん食べた。そうすれば一週間は持つんです」

 コンセット兵舎の床に茅を敷いただけの稽古場で柔道に励んだ。この年の各高校対抗の相撲大会では江戸相撲の選手として出場し、前原は準優勝した。

 安里の人生を決めた1冊の本がある。英語の学習書だ。

 「卒業前、英語の成績が良かった友人から学習書を借りて、夜中に一カ月かけて書き写した。おかげで英語の力がついた」

 卒業後、沖縄外語学校、琉球大学、テキサス大学で学ぶ。語学を生かし、中学校や米軍基地、外資企業で勤務。72年に沖縄バヤリース創業に参画した。「写本のおかげで人生の進むべき道が切り開かれた」と安里は振り返る。

奥田 良正光氏

 安里らが準優勝した大会に沖縄角力の選手として出場し、個人優勝を果たしたのが同じ2期で元与那城村長の奥田良正光(93)である。「陸上、野球も強かった。特にバレーは強豪校だった」と語る。

 1929年、与那城村平安座島の生まれ。43年、沖縄県立工業学校に進む。45年4月の米軍上陸後は家族と共に行動した。石川の収容所では車両の潤滑油で揚げたぽーぽーを食べ、腹を満たした。その後、前原高校の開校を知り、3年生に編入する。

 奥田良はスポーツに打ち込んだ高校時代を懐かしむ。「物のない時代、米兵が使っていたボールとバットをもらい、はだしで野球をやった。バレーボール、陸上もはだしだった」

 無い無い尽くしの中で前原高校はバレーボールの強豪校となる。活躍したのは平安座島の出身選手。それには理由があった。

 「島では子どもたちの遊びがバレーボールだった。漁民の網がネット代わり、紙やブタの胃袋がボール代わりになった」

 寄宿舎で暮らした奥田良はある騒動を覚えている。米兵が兵舎に置き忘れた銃を寄宿舎生の1人が「女性を守るため」という理由で隠し持っていた。

 「そのことを知った米軍は『銃を出さなければ学校を閉鎖する』と校長に警告し、大騒ぎになった」

 卒業後、沖縄外語学校や中央大学で学ぶが、経済的な理由で中退を余儀なくされた。その後、教員を経て政治の道へ。村会議員を経て村長を2期8年務めた。

 公職を離れ、70代にして沖縄国際大学に入学し、法律を学んだ。「人生の第3コーナーで活力を入れたい」という思いからだった。

 戦争と経済的な苦境で学ぶ機会を逸した奥田良は人生の第3コーナーで心の青春を取り戻した。

(文中敬称略)
(編集委員・小那覇安剛)


 

 【前原高校】

 1945年11月 開校。高江洲初等学校校舎で授業を開始
 46年3月 与那城村(現うるま市)西原に移転(現与勝中学校)
 58年6月 具志川市(現うるま市)田場の現在地に移転
 73年3月 春の甲子園に出場。夏の甲子園にも出場(8月)
    5月 若夏国体で女子ソフトボール、男子バレーボールが準優勝
 80年 定時制が閉課程
 96年 夏の甲子園に2度目の出場