減らぬ基地…自衛隊に激しい抵抗 反発薄れるも配備強化に懸念<駐屯50年「自衛隊」と沖縄>①


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「米軍が自衛隊に変わるだけで基地は存在する矛盾があった」と日本復帰を振り返る高良正一さん=15日、那覇市具志の自衛隊基地前

 1972年4月22日、沖縄に自衛隊の移駐部隊第一陣が到着した。沖縄の日本復帰に伴い、自衛隊が配備されることになったが、当時、自衛隊に対する県民の反発は強く、部隊は少人数ずつ移駐せざるを得なかった。第一陣の到着から50年。県民の反発は薄れる一方、南西諸島の配備強化は進む。自衛隊に抱く県民感情の変遷や現状、自衛隊側の思惑などに迫った。

 沖縄返還に先立ち、自衛隊は沖縄への訪問団を活発化させた。上陸を阻止しようと学生や労働組合員は激しい運動を展開。機動隊ともみ合いになった。

 「人殺し帰れ!」「自衛隊帰れ!」。1972年2月、陸上自衛隊幹部候補生250人余が乗った船が那覇港に入港。阻止団がシュプレヒコールを浴びせた。その中に国公労の一員として旧小禄村具志出身の高良正一さん(81)もいた。「復帰しても基地が軽減されるのではなく、変わらないという不満があった。自衛隊は来ない方がいいという考えだった」と振り返る。

具志の土地強制接収反対運動。具志字誌によると、800人の区民が行政府や立法院へのデモ行進で中止を求めて陳情に行ったという(那覇市歴史博物館提供)

 一方で「同じ日本人。そんなに憎しみがあるわけではなかった」とも語る。それほど、米軍の圧政はひどかった。沖縄戦で中部に避難し、米軍の収容所を経て具志に戻った。日本海軍が建設した飛行場を米軍は拡張して使い続けた。父親は米軍のごみ捨て場から拾ってきた建材でテント小屋を建てた。やっとの暮らし。近くの基地から米兵らが夜、乱暴目的で女を探しに来た。一家の小屋でも母親が「アメリカーが来ている!」と叫び、子どもらが大泣きして難を逃れたこともあった。

圧政で運動弱体化

 52年のサンフランシスコ講和条約の発効で米国は沖縄の施政権を獲得し、基地建設のため土地の強制接収を開始。53年、具志も対象に。座り込む住民を300人の武装米兵が包囲した。農地を取り上げられた住民は、基地内の黙認耕作地で農業や軍作業で生計を立てるほかなかったが、米軍は次々に住民を解雇し、黙認耕作地のパスも取り上げた。「いろんな弾圧があって『もう怖い』と。だんだん運動が弱くなっていった」

 米軍の圧政を間近で見たからこそ、高良さんの中で反自衛隊感情は、そこまで強くなかった。しかし今、急速な配備強化の流れで「縮小」を求める思いが強くなってきたと同時に、復帰への疑問も深めている。「自衛隊に変わるだけで基地はそのまま存在するという矛盾。何のためにわれわれは復帰運動を闘ったのか」

薄れる戦時の記憶

 「自衛隊=日本軍という印象は、戦争の記憶が薄れて変わってきた。自衛隊も必要という時代になるのではないか」と豊見城市に住む男性(72)は語る。周りの戦争体験者から、沖縄戦や中国戦線などの話を聞き、どれほど戦争が悲惨かを聞いてきた。アジアの国々に仕事で出張し、現地で日本軍の行為を見聞きすることも多かった。「ロシアがやっていることは、太平洋戦争で日本がアジア諸国を侵略したのと同じだ」とウクライナ侵攻を重ねる。早朝、自衛隊基地から出た車両が隊列を組み、トレーラーに装甲車やミサイルのようなものを積んで国道を走る様子をたびたび目にする男性。戦争になれば沖縄が巻き込まれると懸念を強める。「戦争が始まれば終わりだ。大事なのは歴史に学ぶことだ」と力を込める。
 (中村万里子)

※注:高良正一さんの「高」は旧字体