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寮生活で上下関係は厳しく…吉田勝広さん 手に職つけて早く働きたかった…野国昌春さん 沖縄工業高校(4)<セピア色の春―高校人国記>


この記事を書いた人 Avatar photo 琉球新報社
生徒総会の風景「学園の民主化のために論ず」(「沖工百周年記念誌」より)

 14期電気科からは、後に3人が自治体の首長になった。元金武町長の吉田勝広(77)、前北谷町長の野国昌春(77)、元石川市長の平川崇賢(76)である。吉田と野国は1945年、米軍の沖縄本島上陸直前に出生。高校3年の時は同じクラスだった。

吉田 勝広氏

 吉田の戸籍上の生年月日は45年2月10日となっているが、実際は米軍が沖縄本島に上陸した4月1日の数日前だったと、母から聞かされたことがある。艦砲射撃がやんだ合間に生まれたという。

 終戦後、生まれ育った金武には現在のようにキャンプ・ハンセンの金網はなく、基地内に入ったり恩納岳に登ったりして遊んだ。朝鮮戦争が勃発するとスクラップ・ブームに沸き、砲弾の破片や、より高く売れた真ちゅうを探し求めた。不発弾かどうかを見極めるコツも身に付けた。

 基地内では、食堂前で食べ終わって出てくる米兵に英字紙モーニングスターを売って小銭を稼いだ。「小中学校時代の青春といったらスクラップとモーニングスター」と振り返る。

 中学の先生に勧められ、沖縄工業に進学。寮生活で上下関係は厳しく、夜中にたたき起こされて那覇市松川から識名園付近まで走らされたことも。「3年生には完全服従だったが、まぁ愛情はあった」と笑う。

 卒業後は一時、東京の製作所で住み込みで働いたが、その後知人のつてで東京武蔵野病院に転職した。そこで精神医療と労働運動に出合う。明治学院大に通いながら病院勤務を続け、精神医療と労働に関する論文も執筆した。

 社会党系の組織で沖縄返還運動を学び、全軍労の上原康助と面識を持った。日本復帰後の73年、衆院議員となっていた上原に声を掛けられて秘書になる。精神医療の勉強を離れることに悩むが、病院長らは「いつでも勉強に来なさい」と背中を押してくれた。

 77年に県祖国復帰協議会(復帰協)が解散し「大衆運動がさびれ、新しい運動を創造せんといかんという気持ちがあった」という。県労働組合協議会(県労協)の活動に関わり、78年に始まった平和行進の企画などに携わった。92年に金武町議になり、94年から町長2期、県議4期、県政策調整監を歴任した。

野国 昌春氏

 北谷町上勢頭出身の野国の右足太ももには、今も傷跡が残る。77年前、生まれた直後に始まった沖縄戦で母におんぶされ逃げ回っていた際、流れ弾が貫通したものだ。母も右手を負傷した。8人きょうだいで、一番上の姉は南風原陸軍病院付近で亡くなったとみられ、遺骨は今も見つかっていない。

 終戦後は米軍が占領した故郷に戻れず、近隣で暮らした。北谷小、北谷中と進み、高校は「手に職をつけて早く働きたかった」ことや、基地内でメイドをしていた姉に「米軍は電気関係の人を上に見ている」と聞かされていたこともあり、沖縄工業の電気科を選んだ。

 在学中は北谷から那覇市松川までバスで通った。「野球がしたかったが、通学だけでも大変だった」。長期のストライキでバスが運行しなかった時期があり、トラックをバス代わりにした。

 同級生の多くは卒業後、沖縄本島に五つあった配電会社に就職した。野国は配電会社に電力を供給する米ギルバート社に雇われた。変電所で変圧器の組み立てや管理を担当し、後に同社から業務を引き継いだ琉球電力公社に移った。組合活動に関わるようになり、有給をとっては復帰運動の行進などに参加した。

 27歳、日本復帰。公社は特殊法人沖縄電力に生まれ変わり、野国は復帰直後から22年間、労組の専従となる。最大の課題の一つが、沖電の民営化だった。産業界を中心に本土電力との合併論が浮上する中で、労組は民営化を主張した。

 ある日、琉球セメント創業者の宮城仁四郎から組合に電話があった。野国が出ると、宮城は「民営化で頑張れ。石炭でもいけるぞ」と激励したという。88年、沖電は民営化に至る。

 野国は2005年、沖電開発取締役を退き北谷町長選初当選。21年まで4期務めた。首長としては珍しく、自身の経験から町職員には組合の大切さを説いた。

(文中敬称略)
(當山幸都)


 

 【沖縄工業高校】

1902年6月 首里区立工業徒弟学校として首里区当蔵で開校
 21年6月 県立工業学校となる
 45年4月 米軍空襲で校舎全壊
 48年4月 琉球民政府立工業高校として那覇市安謝で開校
 52年12月 現在の那覇市松川へ校舎移転
 72年5月 日本復帰で県立沖縄工業高校となる
2002年10月 創立100周年記念式典
 14年8月 全国高校総体の重量挙げで宮本昌典が優勝
 21年7月 写真甲子園で優勝