復帰50年に寄せて 根底に戦争拒否の意志<佐藤優のウチナー評論>


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佐藤優氏

 明日は沖縄の施政権が日本に返還されて50周年に当たる記念日だ。この出来事を復帰と表現してもいいのかというわだかまりが筆者の中には少しある。むしろ再合同というのが実態に近いのではないかとも思う(日本からすれば再併合なのかもしれない)。

 しかし、当時の沖縄人の圧倒的大多数の意志に基づいて復帰がなされたという事実は、沖縄の自己決定権の観点から歴史的に大きな意味がある。また日本国憲法についても沖縄に関しては占領軍が上から与えたものではなく、沖縄人の主体的意志によって、民衆と政治・経済・文化エリートが一体になって勝ち取ったものだ。そして何よりも重要なのは平和的手段で沖縄人が日本との再合同を勝ち取ったことだ。

 沖縄返還50周年にあたって日本のいくつかのメディアから寄稿依頼があったが、全て断った。その理由は、ウクライナ戦争の関連で「ウクライナ国民は武器を持って最後の1人まで戦うべきだ」という論調が主流となっている日本のメディアで沖縄について書くことに抵抗を覚えたからだ。日本との再合同にあたって沖縄人が最も強く望んだのは、二度と沖縄が戦場になることがなく、われわれの子孫に戦争を経験させないということだった。この思いを14歳の女学生時代に沖縄戦を体験した者の息子として引き継いでいくことが筆者の使命と思っている。

 ところで復帰1年前の1971年の夏休みを筆者は沖縄で過ごした。泉崎に住んでいた大叔父大叔母の家と開南市場のそばで小さな食堂を営んでいた伯父伯母の家を往復していた。大叔父は製糖会社の役員で菓子会社の大株主だった。赤瓦の大きな家に住んでいて生活も豊かだった。

 対して開南では伯母が1人で食堂を切り盛りしていた。伯父は沖縄芝居の役者(女形)をしていたが、収入はほとんど家に入れなかったようだ。

 食堂は、店が10畳くらいで、居住スペースは6畳もないトタンとベニヤ板で建てた小さな家だった。店は繁盛していた。壁には、そば15仙(セント)、みそ汁15仙、Bランチ20仙というようなメニュー表が書かれていた。店に付属した小さな売店では清涼飲料水も販売していてコカコーラが10仙だったのに対して沖縄産のミスターコーラやベストソーダは5仙だった。筆者はベストソーダが好きになり、毎日のように飲んでいた。

 伯母は沖縄戦のとき母と共に陸軍第62師団(通称「石部隊」)の軍属として戦争を体験した。伯母は22歳で沖縄戦を体験したので、母よりも鮮明に戦争を記憶していた。当時、昼に民放でひめゆり学徒隊に関するテレビドラマが放映されていた。伯母は毎回、涙をこぼしながらテレビを見ていたが、「優、実際の戦争はこんなものじゃなかった。本当につらい記憶は言葉にできないよ。伯母さんの人生は戦争で止まっちゃった。食べていければそれでいいよ。それ以上のことはもう望んでいない」と言っていた。

 母の親族には努力家が多く、実業家、政治家、大学教師、医師、歯科医師などになった人もいた。その中で、開南で食堂を営む伯母だけが貧しい生活をし、親族とも関係をほとんど持たなかった。伯母から聞いた戦争体験についての断片的な話が時々、頭に浮かび、胸が締め付けられるような思いになる。

(作家・元外務省主任分析官)