復帰50年「1ミリだって動いてない」 元琉球新報カメラマンが見た「基地の島」今昔


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沖縄返還は「再び戦争と侵略の軍事的拠点として位置づける『沖縄処分』だ」として、抗議集会後、横断幕を持って国際通りをデモ行進をする復帰協の幹部や参加者ら=1972年5月15日(国吉和夫撮影)

 沖縄が日本に復帰して50年。1972年5月15日の当日、那覇市民会館では復帰記念式典が行われ、隣接する与儀公園では、基地付き返還に抗議する集会が開かれた。かつて式典や集会にそれぞれ参加したかつての若者は50年たった今、「基地の島」として変わらない現実に、改めて復帰の意義を問い直す。憲法が保障する人権や平和への思いは、今も昔も変わらず県民の意識に大きく根付いている。 

 「考えられないくらい雨がしたたか降っていた」。1972年5月、与儀公園の集会。コザ市(現沖縄市)出身で琉球新報社写真部カメラマン(当時)の国吉和夫さん(76)は、濡れないようセロハンで包んだカメラを懐に抱え参加していた。後ろで年老いた女性が叫ぶ様子に気付いた。「ゆるちぇーならんどー!(許してはならないよ)」。沖縄戦の体験から来る日本への怒り―。国吉さんはそう感じながらシャッターを切った。50年あまり、戦争と基地という犠牲を日本に強いられ続ける沖縄の現実を撮り続け、写真で抵抗の精神を貫く。

 美里村(現沖縄市)泡瀬で生まれた。医師の父が幼い頃に亡くなり、貧しい暮らしだった。近所の通信隊基地で米兵らのバーベキューを金網越しに見つめた。米軍絡みの事件事故が相次ぎ、ベトナム戦争下で訓練も激化。落下傘部隊は構わず民間地に降りた。

 福岡の短期大を出て、70年に琉球新報に入社。転機は同年12月、民衆が米軍の車両を次々と焼き払ったコザ騒動だった。「目も開けられないほどの煙とタイヤが燃える臭い。見たこともない沖縄の連中の輝き。したいひゃー(よくやった)」。高揚感の中でほぼ丸一日、現場で撮影した。

 復帰翌日はコザで酔った米兵らのけんかをカメラに収めた。「復帰しても何も変わらない。1ミリだって動いていない」。米と直接対峙(たいじ)していた基地問題は、復帰後、国内問題として扱われるようになり「かえって悪くなった。日本は見て見ぬふりだ」と感じる。基地の町で生まれ、基地を撮り続けた抵抗の写真家。現役を退いてもなお、そのカメラで今を問う。 (中村万里子)

50年前、与儀公園での集会で構えたカメラと同型機を抱く国吉和夫さん=9日、沖縄市