首里杜館地下に日本軍砲兵司令部壕か 沖縄戦で南部撤退前に爆破 「戦後に陥没を見た」の証言も 


この記事を書いた人 Avatar photo 琉球新報社
第5砲兵司令部の壕があったとみられる場所付近で、「1975年ごろに大雨の後で陥没しているのを見た」と証言する當山真徹さん(中央)=22日、那覇市の首里城公園

 平和学習フィールドワーク・首里城周辺の埋没した戦跡壕を巡る(県平和祈念資料館友の会主催)が22日、開かれた。那覇市首里金城町の當山真徹さん(71)は現在の首里城公園内にある首里杜(すいむい)館の駐車場付近で1975年ごろ、「地面の陥没を見た」と証言した。友の会の仲村真事務局長は位置的に「第5砲兵司令部だろう」と指摘。同司令部壕は、第32軍司令部壕のすぐそばにあったが、戦後ほぼ調査が行われていない。県が保存・公開に向けて作業を進める第32軍壕と、周辺の埋没壕との関連も今後、調査が課題となっている。

 第5砲兵司令部には沖縄戦当時、県立第一中学校の3~5年生220人が配属された。45年5月、第32軍司令部の首里の放棄と南部撤退に伴い、一中生だった故・玉栄貞信さんは、第5砲兵司令部と独立工兵第66大隊の壕の爆破を命じられた。二つの壕で計約100人の重傷兵が置き去りにされたという。

 第5砲兵司令部壕はコの字型で北東側はトーチカだったとみられ、90年代の県の第32軍壕の試掘調査では、トーチカ内部で遺骨の存在も確認された。北西側の位置は確認されていないが、當山さんは、大雨の後に一メートル四方の穴が並んで二つあいていたと証言する。穴は数日後に埋め戻されたといい、當山さんは「原因は分からないが地盤が緩くなっていたのでは」と話す。

 第5砲兵司令部壕を巡っては、仲村事務局長や養秀同窓会で解説員を務める山田親信さんの調査で、坑口が首里金城町の民芸館広場と、真珠道の途中にあったとみられることも分かってきた。

 22日のフィールドワークでは、首里安国寺の境内にある壕の跡の前で、沖縄特設警備隊第223中隊(通称・永岡隊)に動員された翁長安子さん(92)も米軍の馬乗り攻撃を受けた壮絶な体験を語った。首里城公園内の「留魂壕」の前では、藤原健本紙客員編集委員が、沖縄師範学校の学徒や当時の新聞「沖縄新報」に触れながら「沖縄の近代史が集約されている場所だ」と公開の必要性を指摘した。
 (中村万里子)