「琉球の自己決定権」確立が重要 「復帰」50年シンポジウム


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 日本「復帰」から50年を迎えるのを前にシンポジウム「日本の植民地支配許さず 琉球の自己決定権の行使を」が14日、那覇市の県総合福祉センターで開かれた。歴史や政治、琉球史、憲法の専門家4人が1972年の日本「復帰」の課題を討議し、自己決定権の重要性を強調した。沖縄は「復帰」によって日米安全保障の礎と位置付けられ、軍事基地の固定化、増強が進み、多大な犠牲を強いられていると指摘。県民が主体的に未来を描くために自己決定権の確立が重要とし、浸透へ琉球・沖縄史を学ぶ機会の拡大や啓発を呼び掛けた。シンポは「命どぅ宝!琉球の自己決定権の会」が主催し、オンライン参加を含め約200人が聴き入った。

【左から】伊佐眞一氏、後田多敦氏、島袋純氏、高良沙哉氏

 第一部はパネリストとして沖縄近現代史家の伊佐眞一氏、神奈川大教授の後田多敦氏、沖大教授の高良沙哉氏、琉大教授の島袋純氏が登壇した。団体職員の豊見山和美さんがコーディネーターを務めた。

 伊佐氏は復帰後、米軍による重圧に加え、日本政府が施政権を握ることで沖縄側の抵抗相手は二重になり、米軍基地問題の解決が複雑になっているとした。県庁の幹部職員が、政府と向き合う姿勢について要請、請願、陳情、訴えといった「お願い」が当たり前になっていると批判。その上で、2・4ゼネストやコザ騒動、95年の米兵による暴行事件を受けた県民大会など民衆が抵抗した経験を振り返り「沖縄の指導者はそうした経験を血肉化しなければならない。政府や米軍の守りたいものが揺らぐ時、沖縄における発言力が大きくなる。戦略・戦術含めて、駆け引き能力を求められる」と提起した。さらに「その状況は「『ある』ものではなくて、沖縄の民衆側が主体的に『つくるもの』」と呼び掛けた。

 政治学が専門の島袋氏は復帰運動について、復帰前の最大の問題であった米軍による人権侵害から、人権が保障される統合への移行として(日本政府への)期待を含んだ思いがあったと分析した。しかし、71年の沖縄の返還協定に関する審議打ち切りと強行採決、沖縄関連法案の採決は希望を完全に打ち砕くものだったと指摘。「人権侵害は復帰後も日本政府によって形式的に合法化され固定化されている。多くの(沖縄の)政治家は『復帰』は名ばかりで実を失ったことを思い知らされた。『未完の復帰』と言われたのはこのことを意味している」と述べた。

 琉球史・日本近代史に詳しい後田多氏は1879年の琉球併合(「琉球処分」)から沖縄戦をへて、「復帰」に至る歴史を踏まえ「復帰」を「日本再併合」と指摘した。日本による「琉球処分」の実態について、1872年の国王尚泰を琉球藩王に封じた第1段階、琉球と清国との関係断絶命令(外交権の接収)が出された第2段階、1879年の王権の接収と沖縄県設置を第3段階と説明した。

 日本に併合された過程を踏まえ「沖縄には歴史的に自己決定権はない。琉球はもともと日本ではなかったが併合された。戦後、沖縄の人々は憲法改正手続きからも外され、改定に加わっていない」との認識を示した。

 自己決定権の確立に向けて琉球・沖縄史を学ぶ重要性を説き「『琉球処分』以降、琉球人の抵抗が切り崩されてきた。沖縄の人々が自分たちの足で立つために結束していけばチャンスは来る。そのためにはまず過去を知ること。歴史を振り返れば未来が見えると言われている」と呼び掛けた。

 憲法学が専門の高良沙哉氏は、「復帰」とともに沖縄に配備された自衛隊の拡充・強化を懸念した。復帰返還協定に沖縄が絡めなかった点に触れ「沖縄の主権が奪われている」と述べた。(復帰運動の側は)平和憲法への参加を強く望んでいたが、1970年代の日本では安保体制と平和憲法体制が両立するようないびつな状態になっていたと指摘する。

 2017年の集団的自衛権行使の容認以降、県内でも新たな自衛隊配備が進んでいるが、沖縄島ではない宮古・八重山における自衛隊問題に対する県民の関心は薄いと批判した。住宅や生活エリアで着々と自衛隊基地や訓練場が建設されている実態を説明し「辺野古への基地建設反対に一生懸命取り組んでいる背後で、十分この(自衛隊の)問題を扱ってこなかった」と問題提起した。

 その上で「沖縄は日米の軍事拠点として台湾有事における日米の作戦行動計画においては、戦場として想定され、住民の命の保護をないがしろにする計画の主要な一部に組み込まれている。これが沖縄の求めた『復帰』なのだろうか」と疑問を投げ掛けた。

 シンポ2部はフォーク歌手・佐渡山豊と、国吉亮によるコンサートが開かれた。
 (高江洲洋子)

※注:高良沙哉氏の「高」は旧字体