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誇り、あこがれの農林学校 上級生に敬礼しないと制裁…苦しい「3年会議」も 山城清輝氏、渡口彦信氏 北部農林高校(2)<セピア色の春>


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 北部農林高校の前身、県立農林学校は現在の嘉手納中学校の敷地にあった。当時の校門の門柱が嘉手納中に残っている。元沖縄市教育長で38期の山城清輝(98)は「大通りから校門まで続くモクマオウの並木がきれいだった」と懐かしむ。

 1924年、北谷村(現嘉手納町)東で生まれた。39年、屋良尋常高等小学校から県立農林学校へ進む。「県立一中、二中は那覇。三中は名護。中部で進学するなら農林だった」と山城は語る。農林学校はあこがれの学校だった。

 宮古、八重山、奄美大島から生徒が集まった。にぎやかな校内で幅を利かせていたのは先輩たち。「上級生には敬礼しなければならなかった。それをしなければ制裁があった」

嘉手納中学校の敷地に残る沖縄県立農林学校の門柱(右)と沖縄青年師範学校の門柱
山城 清輝氏

 「3年会議」という名の下級生指導の場があった。言葉遣いやあいさつの仕方などで態度の悪い下級生を上級生が叱責(しっせき)するのである。「あの頃は軍隊式で制裁もあった。3年会議は苦しかった」と山城は振り返る。

 配属将校の下で軍事教練に励んだ。「教練は厳しかった。配属将校は現役の中尉。今考えると、校長を監視していたのではないか」

 教師を目指していた山城は農林学校卒業後、同じ敷地にあった教師養成の青年師範学校で学ぶ。44年、北谷青年学校の教壇に立ったが徴兵検査を受け、熊本の陸軍予備士官学校に入学。宮崎で敗戦を迎えた。

 46年9月、帰郷。家のあった場所は米軍基地に接収されていた。「草木もない。これが沖縄かと思った」と山城。焼土の上に生まれた室川初等学校の教師として戦後を歩み始めた。

 比謝川ガス相談役で41期の渡口彦信(96)も「3年会議」の厳しさを忘れることができない。

 「講堂で正座した1年生を3年生が取り囲み、『帽子をゆがめてかぶっていた』『タオルを腰から下げていた』と難癖を付けた」

 1926年、本部町備瀬で生まれた。町内で万年筆店を営んでいた父は嘉手納にも出店した。当時の嘉手納は県営鉄道の終点駅があり、にぎやかな地だった。渡口も12歳で嘉手納に移り、屋良尋常高等小学校で学んだ。父の勧めで県立農林学校を目指し、2度の挑戦で42年に入学を果たした。

渡口 彦信氏

 「牛や馬を世話して、草刈りばかりしていたので上級学校に進むつもりはなかった」と渡口は語るが、入学後は農林学校に誇りを感じた。「優秀な生徒が集まり、卒業後は仕事に就けるという感じだった。エリート意識があり、夢もあった」と振り返る。

 山城と同様、軍事教練に苦しんだ。「銃を握っての匍匐(ほふく)前進はきつかった」と語る。それでも兵隊にあこがれ、海軍飛行予科練習生(予科練)に志願したが、身体検査で不合格となった。「身長が足りず、門前払いになった。布団をかぶり、一晩中泣いたよ」

 県立農林学校卒業を前にした45年3月、32軍の高射砲隊に入隊。沖縄戦で摩文仁に追い詰められた渡口は、米軍の拡声器から聞こえてくる「いじてぃめんそーれ」(出てきてください)という呼び掛けに心を動かされ投降した。捕虜となりハワイの収容所に送られ、47年1月に帰郷。戦後は実業家の道を歩んだ。

 今年2月、渡口は投降を呼び掛けた人物の親類と面会した。声の主は伊江村出身の入江(旧姓・西江)昌治。農林学校の20期だった。「彼がいなければ私は生きられなかった」

 県立農林学校の戦死者は生徒124人、教師6人の計130人に上る。学友の命を奪った戦争のむごさを伝えるため、渡口は自身の体験を各地で語り続けてきた。

 戦前の卒業生でつくる県立農林学校同窓会は高齢化を理由に2009年に解散した。学校敷地など同窓会財産は沖縄の教育振興に活用されている。

(敬称略)

(編集委員・小那覇安剛)


 

【沿革】

 1902年4月  甲種国頭郡各間切島組合立農学校として名護に創設
  11年10月 沖縄県立国頭農学校に昇格
  16年3月  嘉手納に移転、県立農学校に改称
  23年4月  林科を設置し、県立農林学校に改称
  45年   終戦により廃校
  46年1月  北部農林高等学校として名護市東江に創設
  49年2月  名護市宇茂佐に移転
  58年   定時制課程を新設
  89年   農業科を改編して熱帯農業科、園芸工学科新設
  90年   林業科を林業緑地科、生活科を生活科学科、食品製造科を食品科学科へ改編