北部農林高校の卒業生には学校生活でたたき込まれた「農林魂」を胸に警察官の道を選んだ人も少なくない。県警の地元採用組で最高ポストの刑事部長経験者に2人のOBがいる。21期の日高清晴(73)と25期の石新政英(70)だ。
日高は1948年、本部町に生まれた。9人きょうだいの長男で、5人の姉に囲まれて育った。実家は2020年に閉校した崎本部小学校の近くで、目の前に広がる海が遊び場だった。
農家だった両親の影響もあり北部農林への進学を希望したが、受験に失敗、同学年より1年遅れの65年に入学した。日高は当時を「長男の私に対する期待が大きく、親に叱られながら勉強した」と振り返る。
猛勉強の末に入った北農は上下関係が厳しかった。基地で働いていた姉から贈られた革靴で通学していたところ、先輩に「生意気だ」と言われ、靴を捨てられた。「靴は取り戻したが、それから運動靴を履いて通学するようになった」。
進級でキビ専攻に進んだ日高は畜産会社への就職を考えていたが、仲が良かった崎本部の駐在員から警察官を勧められ、68年、琉球警察に入る。当時は教職員の政治活動を制限する教公二法を巡り、激しい抗議運動が繰り広げられていた時代で、最前線に立つ若い警察官の多くが警察を去っていった。そのため採用枠も増え、日高の同期は100人超いたという。
最初の配属先は本部署で、その後、沖縄署の渉外機動警ら隊に回された。米軍関係者による事件事故に対応する警ら隊の業務は激務で「米軍人と何度も乱闘した」。
刑事畑を歩んだ日高は「犯罪は必ず挙げる」の一心で、暴力団抗争や米兵絡みの事件、銃の大量密輸など数多くの事件を手掛けてきた。激動の警察官人生を振り返り、「北農で精神力が鍛えられたからこそ警察でもやっていけた。北農には感謝したい」と語った。
石新は52年、伊江村に生まれた。8人きょうだいの次男で、幼少の時からわんぱくだった。負けん気が強く、近所の友だちと遊ぶ際はいつも「勝つまでやる」が日常だった。召集兵として台湾出兵の経験を持つ父のしつけは厳しく、「伊江村一だった」と自負する。
生来の負けん気が災いしてか、中学3年の時、ある教科の教員と折り合いが悪く、通知表に「1」を付けられた。名護高進学を希望していたが、「名護高は一つでも1があったら合格できなかった」。石新は1年の浪人生活を経て、69年、北部農林に入学した。
高校2年の時、柔道部顧問の久場兼征から誘われ軽い気持ちで入ったところ、のめり込んだ。久場の指導は熱心で、石新が部活を休むと「いつも迎えにきた」と懐かしむ。石新にとって柔道との出合いは警察官になるきっかけとなる。
高校を卒業した石新は重機のオペレーターやセールスマンなど職を転々。警備員の職に就いていた時、警察学校の初任科生を見て「同じ制服なら警察官がいい」と思い、72年10月、県警2期生として採用された。石新によると、72年は4月と10月にそれぞれ50人が採用された。「復帰に伴い警察官の数が足りなかったためだ」と語る。
警察官になっても人一倍強い正義感から、度々上司らと衝突したが、筋は通し続けた。警察官人生の中で特に印象に残っているのが豊見城署長時代の2007年に起きた中華航空機炎上事故だ。一歩間違えば大惨事だったが、「死者も出ずほっとした」と振り返る。
現在、警備会社で社長業をこなしながら北農同窓会中南部支部事務局長を務める。25期生模合は今も健在で「非常にいい学校に入ったとしみじみ思う。北農に入学していなかったら道を外れたかもしれない」と豪快に笑った。
(敬称略)
(吉田健一)
【沿革】
1902年4月 甲種国頭郡各間切島組合立農学校として名護に創設
11年10月 沖縄県立国頭農学校に昇格
16年3月 嘉手納に移転、県立農学校に改称
23年4月 林科を設置し、県立農林学校に改称
45年 終戦により廃校
46年1月 北部農林高等学校として名護市東江に創設
49年2月 名護市宇茂佐に移転
58年 定時制課程を新設
89年 農業科を改編して熱帯農業科、園芸工学科新設
90年 林業科を林業緑地科、生活科を生活科学科、食品製造科を食品科学科へ改編