箱根「花の1区」1955年から4大会回連続で駆けた沖縄県出身者がいた 90歳の照喜名さん「悔いない青春、今でも感謝」


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箱根駅伝第31回大会から4大会1区を力走し、最高2位の記録を持つ照喜名実さん=横浜市港南区

 【神奈川】東京―箱根間を往復する箱根駅伝が誕生したのは1920(大正9)年にさかのぼる。そんな伝統の駅伝に、父が美里村(現沖縄市)泡瀬出身の県人、照喜名実さん(90)=横浜市港南区=が出場し、好成績を収めたことはあまり知られていない。1955年の第31回大会以来、初陣を切る1区を4回力走し、第34回大会では区間2位の成績で有終の美を飾った。

 90歳になる照喜名さんは神奈川県川崎市で生まれた。家庭の事情があり、父の名六さんが泡瀬出身の縁で「一時祖父のいる泡瀬に預けられ、3年を泡瀬で過ごした」と振り返る。幼少時の言葉は自らの血肉となり父の住む川崎に戻っても“うーまくー”ぶりを発揮するアイテムになった。「隣近所の子どもとウチナーグチで遊んでいて、そのあげくに頭を殴って泣かせて帰ってくるもんで、近所では評判だったと思いますよ」とわんぱく盛りの幼少時を懐かしんだ。

 そして当時の旧制川崎中学に進んだ。陸上競技の才能が認められるのはこの時期だ。校内マラソン大会で1位となって陸上競技部長がスカウトに来る。県内の大会でも優勝し長距離選手として頭角を現した。卒業後は電電公社(現在のNTT)に勤めながら横浜市立大学で学んだ。

 進学先の横浜市大が駅伝に初出場したのは1954年の第30回大会。その時に「初参加はビリ」とのジンクスを破って14位になったのが契機となり、チームの強化が図られたという。声が掛かったのが照喜名さんだった。当初は補欠だったというが、駅伝の本番を前にいきなり「スタートはお前」と言われて1区の走者となった。

 素質と才能を見込まれたのか。初出場の大会以来、1区(当時約22・3キロ)の走者が定番となった。初回は9位(1時間15分18秒)、第32回大会は7位(1時間12分41秒)、第33回大会は6位(1時間12分58秒)と年を追うごとに順位を上げた。そして第34回大会で横浜市大は途中棄権となるが、照喜名さんは2位(1時間12分58秒)を飾る。「日本大学の愛敬実選手と抜きつ抜かれつ」のデッドヒートを繰り広げた末だった。

 「日々7キロから13キロの練習しか消化できなったが、練習を重ねていればなんとかなった」。思い出を振り返る照喜名さんの表情は屈託ない。往年の箱根駅伝を振り返り「関係者の好意に支えられた4年間。悔いのない青春のイベントであったと今でも感謝している」と記念誌に記している。

 大学卒業後、照喜名さんは実業団への誘いもあったが断り、電電公社は中途退社した。妻の八洲子さんの父に呼ばれて転職。経営に携わる中で「沖縄からも従業員も募った」と話す。当時の従業員は今も神奈川県の近隣に住み、交流がある。一方で事業の拡大を進めて新潟県では鉄工場の立ち上げに携わり、社長を務めた。毎年の箱根駅伝の観戦が今も活力源だ。

(斎藤学)