沖縄戦Q&A/悲惨な戦 始まりと終わり/Q1 Q2 Q3


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6月23日は沖縄戦で亡くなった人々のめい福を祈り、恒久平和を願う慰霊の日。今から78年前、沖縄は日本と米英が戦った太平洋戦争の戦場の一つとなりました。沖縄戦はなぜ起こったのでしょう。そして、おびただしい数の住民を巻き込んだ地上戦の実態はどのようなものだったのでしょうか。

Q1 なぜ日本とアメリカは戦争したの?
日本の攻撃が発端

1937年7月、中国・北京(ペキン)郊外で起きた発砲事件がきっかけとなり、日本と中国の全面戦争が始まりました。戦争が長引き、行き詰まった事態を変えようとした日本はフランス領インドシナに進駐しました。その結果、日本の経済活動を封じ込めようとしたアメリカやイギリスなど連合国との対立を深めました。41年12月8日(日本時間)に日本軍がマレー半島に上陸し、ハワイの真珠湾に泊まっていた米軍の艦船を襲撃したことで、沖縄も戦場になっていくアジア・太平洋戦争が始まりました。

Q2 なぜ沖縄が戦場になったの?
日本本土の「捨て石」に

太平洋戦争で日本は米軍の反撃を受けて次々に敗退していきました。1943年9月、日本は戦争を続けるために確保しなければならない区域として「絶対国防圏」を設定しました。千島列島からマリアナ諸島、ミャンマーなどを結ぶ広い防衛線です。
また日本軍は航空戦力の強化のため、43年夏ごろから沖縄本島や周辺離島などに飛行場を建設しました。44年3月には南西諸島の防備強化のために第32軍を創設しました。
しかし44年7月に、「絶対国防圏」の重要な場所だったサイパン島が米軍に攻め落とされます。次に米軍が侵攻するのは沖縄だと判断した日本は44年7月~9月にかけて沖縄に第32軍の部隊を送り込みました。
一方、米軍の最終目標は日本本土に侵攻して日本を降伏させることでした。そのために沖縄を占領し、本土への攻撃基地を造る必要がありました。米軍は45年3月26日に慶良間諸島、4月1日に沖縄本島に上陸しました。
第32軍は米軍の本土侵攻を遅らせるために沖縄でできるだけ足止めする持久作戦をとりました。沖縄戦は、時間稼ぎの「捨て石作戦」だったのです。

Q3 何人ぐらい戦ったの?
県民を根こそぎ動員

米軍の上陸が迫る1945年3月下旬、沖縄には約11万人の日本軍がいました。このうち約2万4000人は沖縄にいる一定の年齢の男子を集めた「防衛隊」や「義勇隊」、今の中学生や高校生くらいの生徒たちでつくる「学徒隊」でした。足りない戦力を補うため戦場で役に立つ県民を根こそぎ動員したのです。
壕などに避難している若者を正式な命令なく、強制的に部隊に動員して戦闘に参加させた例もあります。日本軍に動員された人の正確な数は今も分かっていません。
対する米軍の総兵力は当時の沖縄県の人口を上回る約55万人でした。

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〈ルビ〉

沖縄戦Q&A/悲惨(ひさん)な戦(いくさ) 始(はじ)まりと終(お)わり/Q1 Q2 Q3

6月(がつ)23日(にち)は沖縄戦(おきなわせん)で亡(な)くなった人々(ひとびと)のめい福(ふく)を祈(いの)り、恒久平和(こうきゅうへいわ)を願(ねが)う慰霊(いれい)の日(ひ)。今(いま)から78年前(ねんまえ)、沖縄(おきなわ)は日本(にっぽん)と米英(べいえい)が戦(たたか)った太平洋戦争(たいへいようせんそう)の戦場(せんじょう)の一(ひと)つとなりました。沖縄戦(おきなわせん)はなぜ起(お)こったのでしょう。そして、おびただしい数(かず)の住民(じゅうみん)を巻(ま)き込(こ)んだ地上戦(ちじょうせん)の実態(じったい)はどのようなものだったのでしょうか。

Q1 なぜ日本とアメリカは戦争(せんそう)したの?
日本(にっぽん)の攻撃(こうげき)が発端(ほったん)

1937年(ねん)7月(がつ)、中国(ちゅうごく)・北京(ペキン)郊外(こうがい)で起(お)きた発砲事件(はっぽうじけん)がきっかけとなり、日本(にっぽん)と中国(ちゅうごく)の全面戦争(ぜんめんせんそう)が始(はじ)まりました。戦争(せんそう)が長引(ながび)き、行(い)き詰(づ)まった事態(じたい)を変(か)えようとした日本(にっぽん)はフランス領(りょう)インドシナに進駐(しんちゅう)しました。その結果(けっか)、日本(にっぽん)の経済活動(けいざいかつどう)を封(ふう)じ込(こ)めようとしたアメリカやイギリスなど連合国(れんごうこく)との対立(たいりつ)を深(ふか)めました。41年(ねん)12月(がつ)8日(ようか)(日本時間(にほんじかん))に日本軍(にほんぐん)がマレー半島(はんとう)に上陸(じょうりく)し、ハワイの真珠湾(しんじゅわん)に泊(と)まっていた米軍(べいぐん)の艦船(かんせん)を襲撃(しゅうげき)したことで、沖縄(おきなわ)も戦場(せんじょう)になっていくアジア・太平洋戦争(たいへいようせんそう)が始(はじ)まりました。

Q2 なぜ沖縄(おきなわ)が戦場(せんじょう)になったの?
日本本土(にほんほんど)の「捨(す)て石(いし)」に

太平洋戦争(たいへいようせんそう)で日本(にっぽん)は米軍(べいぐん)の反撃(はんげき)を受(う)けて次々(つぎつぎ)に敗退(はいたい)していきました。1943年(ねん)9月(がつ)、日本(にっぽん)は戦争(せんそう)を続(つづ)けるために確保(かくほ)しなければならない区域(くいき)として「絶対国防圏(ぜったいこくぼうけん)」を設定(せってい)しました。千島列島(ちしまれっとう)からマリアナ諸島(しょとう)、ミャンマーなどを結(むす)ぶ広(ひろ)い防衛線(ぼうえいせん)です。
また日本軍(にほんぐん)は航空戦力(こうくうせんりょく)の強化(きょうか)のため、43年(ねん)夏(なつ)ごろから沖縄本島(おきなわほんとう)や周辺離島(しゅうへんりとう)などに飛行場(ひこうじょう)を建設(けんせつ)しました。44年(ねん)3月(がつ)には南西諸島(なんせいしょとう)の防備強化(ぼうびきょうか)のために第(だい)32軍(ぐん)を創設(そうせつ)しました。
しかし44年(ねん)7月(がつ)に、「絶対国防圏(ぜったいこくぼうけん)」の重要(じゅうよう)な場所(ばしょ)だったサイパン島(とう)が米軍(べいぐん)に攻(せ)め落(お)とされます。次(つぎ)に米軍(べいぐん)が侵攻(しんこう)するのは沖縄(おきなわ)だと判断(はんだん)した日本(にっぽん)は44年(ねん)7月(がつ)~9月(がつ)にかけて沖縄(おきなわ)に第(だい)32軍(ぐん)の部隊(ぶたい)を送(おく)り込(こ)みました。
一方(いっぽう)、米軍(べいぐん)の最終目標(さいしゅうもくひょう)は日本本土(にほんほんど)に侵攻(しんこう)して日本(にっぽん)を降伏(こうぶく)させることでした。そのために沖縄(おきなわ)を占領(せんりょう)し、本土(ほんど)への攻撃基地(こうげききち)を造(つく)る必要(ひつよう)がありました。米軍(べいぐん)は45年(ねん)3月(がつ)26日(にち)に慶良間諸島(けらましょとう)、4月(がつ)1日(ついたち)に沖縄本島(おきなわほんとう)に上陸(じょうりく)しました。
第(だい)32軍(ぐん)は米軍(べいぐん)の本土侵攻(ほんどしんこう)を遅(おく)らせるために沖縄(おきなわ)でできるだけ足止(あしど)めする持久作戦(じきゅうさくせん)をとりました。沖縄戦(おきなわせん)は、時間(じかん)稼(かせ)ぎの「捨(す)て石(いし)作戦(さくせん)」だったのです。

Q3 何人(なんにん)ぐらい戦(たたか)ったの?
県民(けんみん)を根(ね)こそぎ動員(どういん)

米軍(べいぐん)の上陸(じょうりく)が迫(せま)る1945年(ねん)3月(がつ)下旬(げじゅん)、沖縄(おきなわ)には約(やく)11万人(まんにん)の日本軍(にほんぐん)がいました。このうち約(やく)2万(まん)4000人(にん)は沖縄(おきなわ)にいる一定(いってい)の年齢(ねんれい)の男子(だんし)を集(あつ)めた「防衛隊(ぼうえいたい)」や「義勇隊(ぎゆうたい)」、今(いま)の中学生(ちゅうがくせい)や高校生(こうこうせい)くらいの生徒(せいと)たちでつくる「学徒隊(がくとたい)」でした。足(た)りない戦力(せんりょく)を補(おぎな)うため戦場(せんじょう)で役(やく)に立(た)つ県民(けんみん)を根(ね)こそぎ動員(どういん)したのです。
壕(ごう)などに避難(ひなん)している若者(わかもの)を正式(せいしき)な命令(めいれい)なく、強制的(きょうせいてき)に部隊(ぶたい)に動員(どういん)して戦闘(せんとう)に参加(さんか)させた例(れい)もあります。日本軍(にほんぐん)に動員(どういん)された人(ひと)の正確(せいかく)な数(かず)は今(いま)も分(わ)かっていません。
対(たい)する米軍(べいぐん)の総(そう)兵力(へいりょく)は当時(とうじ)の沖縄県(おきなわけん)の人口(じんこう)を上回(うわまわ)る約(やく)55万人(まんにん)でした。