中国、尖閣を自国領と明記に軍部介入 92年・領海法を制定の際 外務省と対立


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 中国が1992年2月に領海法を制定した際、尖閣諸島(中国名・釣魚島)を自国領と明記するよう軍部が強硬に主張し実現させていたと、当時の事情を知る関係者が1日までに明らかにした。軍部は指導部の外交軍事政策に介入し、南シナ海の南沙(英語名スプラトリー)諸島への武力進出も訴えた。軍部タカ派の圧力行使の実態が判明するのは異例だ。

 圧力をかけたのは当時の共産党中央軍事委員会弁公庁主任の李際均氏(中将)。李氏は今年1月に88歳で死去し、元部下の■鉄鷹氏=元天津市新聞弁公室副主任=がインターネットに公開した追悼文で経緯を明かした。

 国家海洋局が90年4月に提起した領海法(意見募集稿)では尖閣が含まれていなかった。李氏は「子孫が主権を主張する法的な根拠を失う」と反発し、書き入れ不要とする外務省と対立。外務省は92年10月の天皇訪中を控え、日本に配慮したとみられる。

 李氏は軍事委法制局の幹部を外務省に何度も派遣して交渉。全国人民代表大会(全人代)の軍人代表には尖閣を明記しない法案は通さないよう厳命した。「外交は国防に服従せよ」という軍の論理を堅持し、外務省を押し切ったという。軍部タカ派が、当時の最高実力者の故〓小平氏と、軍事委主席を兼任していた党トップの故江沢民総書記を動かしたことになる。

 80年代後半、南シナ海の石油資源に着目し、領土と海洋権益を守るよう主張。〓氏の批准を取り付け「南沙諸島を奪還する軍事闘争」に乗り出す方針を決定したという。

 これを受け88年3月、中国はベトナムとの武力衝突に大勝して南沙の複数の岩礁の実効支配を始め、李氏は南沙の完全奪取を主張したものの、これは指導部に聞き入れられなかったという。

 追悼文は中国研究所(東京)の趙宏偉理事が「中国年鑑2023」(同研究所5月25日発行)で紹介した。

※注:■は「龍」の下に「共」
※注:〓は「登」にオオザト

(共同通信)