不発弾、今なお地中に1880トン 過去に悲惨な事故も 県民生活を脅かす


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避難開始前、報道陣に公開された不発弾処理現場。中央付近の円筒状の部分が発見場所=5月21日、那覇市古島の那覇市立病院敷地内(ジャン松元撮影)

 沖縄戦の組織的な戦闘が終結したとされる1945年6月23日から78年となる「慰霊の日」を迎えた。県内には今なお生活を脅かす不発弾が残り、所有者不明土地は未解決、遺骨収集は難航する。戦後処理は終わっていない。「戦後」は歳月を重ねる一方、近年は政府による南西諸島の軍備強化や、沖縄を取り巻く国際情勢が厳しさを増し「新たな戦前」の危険性が指摘されている。

 5月21日、那覇市古島の那覇市立病院内の工事現場で見つかった米国製5インチ艦砲弾の不発弾処理作業が実施された。入院患者や周辺住民が一時避難したほか、避難の難しい患者がいたため現場に面した病棟の窓にベニヤ板が二重に張られた。戦後78年。県内では今なお、工事などの際に不発弾が発見され、県民の生活を脅かしている。

 沖縄戦で投下された弾薬約20万トンのうち、不発弾となったのは5%の1万トンと推定されている。1972年の日本復帰までに住民などによって約3千トン、米軍によって約2500トンが処理され、復帰後は自衛隊によって約2120トンが処理された。2022年度に至っても処理数は472件、14・8トンに上る。山や海底にあり、発見困難で処理できない永久不明弾は500トン程度と見込まれるが、それを差し引いても残り1880トン程度の不発弾が埋もれている計算になる。

 過去には不発弾の爆発による悲惨な事故もあった。74年3月、那覇市小禄の幼稚園そばの下水道工事現場で日本軍の機雷が爆発。3歳の女児や作業員ら4人が死亡、34人が重軽傷を負った。2009年、糸満市小波蔵の工事現場で米国製250キロ爆弾が爆発し2人が重軽傷を負った。工事とは無関係に爆発した例もある。1995年、下地町(現宮古島市)の民家で、地中の不発弾が突如爆発し、門柱や塀を破壊した。爆発数日前の地震で時限式の信管が反応した可能性が指摘された。

 沖縄総合事務局は、不発弾のうち多くを占める米軍5インチ艦砲弾について、早ければ今年12月にも密閉式の「耐爆容器」を使った処理を導入する。従来の処理方法と比べて避難半径が縮小され、発見から処理までの時間も大幅な短縮が見込まれることから、住民の負担軽減や工事の停止による経済損失の減少などが期待される。
 (沖田有吾)