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山積みの爆弾の上に米兵が上った後、山が崩れ…「伊江島LCT爆発」とは 浮かび上がる現場管理のずさんさ


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米軍の弾薬輸送船(LCT)が爆発後の伊江村の大口浜。×マークはLCTが爆発した地点、××マークはLCTの残骸を示している。(県公文書館所蔵)

 伊江島の大口(ウプグチ)浜連絡船桟橋(現在の伊江港)で1948年8月6日午後5時28分、米軍が島の北海岸にある爆弾集積場から未使用爆弾を遠洋へと投棄する作業中、125トンの爆弾を積載し桟橋に停泊していた米軍爆弾輸送船(LCT)が爆発した。渡久地港からの連絡船の入港とも重なり、桟橋にいた乗客や村民など107人の命を奪い、70~100人が負傷した。事故の背景には、現場監督者の一時不在や爆弾の管理方法のずさんさなどがあった。

 2008年8月に県公文書館が公開した米軍の事故調査報告書に、事故当時、LCTから数十メートル離れた場所で爆発を目撃した伊江村の知念權三さんに米軍が聴取を行った際の記録がある。知念さんは「黒人兵1人がLCTに乗り込み、(山積みされた)爆弾の上に上がった後、爆弾が崩れていった」と証言している。

 爆発事故の記録、継承に取り組む「伊江島米軍LCT爆発事件8・6の会」が、公開された米軍の事故報告書を翻訳し、まとめた本「伊江島米軍爆弾輸送船LCT爆発事件」(21年発刊)によると事故当日、米軍は午前6時から爆弾の搬出作業を開始した。爆弾集積所から大口浜連絡船桟橋の浜までトラックで爆弾を運び、停泊している2隻のLCTに爆弾を積み込み、遠洋に投棄する予定だったが、作業の途中で1隻が干潮のため座礁した。午後2時ごろに現場総責任者の大尉と爆弾検査員の2人は座礁していないLCTに乗り込み、出港した。

 座礁で浜に残されたLCTは爆弾処理指揮者、責任者が不在となった。午後5時ごろ、本部の渡久地港から連絡船が入港、乗客が下船を始めた。午後5時28分、黒人兵が座礁したLCTに積まれた爆弾の上に上がった際、荷崩れを起こし、爆発が起きたという。
 (金城大樹)