<未来に伝える沖縄戦>弟も失い、戦争孤児に 宮里とよ子さん(80)〈下〉


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 《沖縄本島からマリアナ諸島のサイパン島で地上戦に巻き込まれた宮里とよ子さん(80)=うるま市石川赤崎=は、戦禍を逃れようと母と弟の3人でアスリートからタッポーチョ山に向かいました》

サイパンでの戦争体験を振り返り「今の平和な世の中が続いてほしい」と話す宮里とよ子さん=2月18日、うるま市石川の自宅

 米兵に見つかると殺されるからと、昼は崖の穴や茂みに隠れて夜に移動をしました。数日かけてタッポーチョ山に着き、麓の岩陰に隠れていました。ある夜、周囲で鉄砲の音がするので、危ないからと別の場所に移動しようとしました。
 弟をおんぶして駆け出す母親の後を追って、岩陰を出ました。100メートルくらい走ったくらいでバラバラっと音がして、お母さんがうつぶせに倒れました。私も右足に激痛が走りそのまま倒れました。お母さんは脇腹を、私は足のふくらはぎを撃たれ、2人とも動けなくなりました。幸い弟に弾は当たりませんでした。
 空が白み始めたころ、お母さんに「水が欲しいよ」と言うと、お母さんは「お前の頭の方にないか」と言います。首を持ち上げて見てみると、頭上にあったのは砲弾の破片のような鉄の塊で、水筒は自分の体よりもっと上にありました。「これ違うもん」と言い、あおむけのまま上に行こうとしましたが、足の肉がもげて血が出ているためか、動けませんでした。お母さんは「誰が来ても、息はするな」と言って、亡くなりました。「もうお母さんはいないんだ」と思いました。

※続きは3月27日付紙面をご覧ください。