あなたは世の中のこと、どこまでリアルに感じていますか― ヘイトスピーチにも抗ったハルモニたちを追った映画監督が、沖縄でみたもの、撮ったもの、感じたこと 映画「アリランラプソディ」沖縄初上映


あなたは世の中のこと、どこまでリアルに感じていますか― ヘイトスピーチにも抗ったハルモニたちを追った映画監督が、沖縄でみたもの、撮ったもの、感じたこと 映画「アリランラプソディ」沖縄初上映
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 在日コリアンのハルモニ(韓国語で「おばあさん」の意)たちを追ったドキュメンタリー映画「アリランラプソディ~海を越えたハルモニたち~」の上映会が29日、北谷町のちゃたんニライセンターカナイホールであった。上映後に舞台あいさつに立った監督の金聖雄(きむ・そんうん)さんは、戦争を体験したハルモニたちの人生に寄り添ってきた思いを紹介しながら「戦争は駄目だ、差別は駄目なんだということをそれぞれの立場で一歩踏み出していければいい」と映画に込めた思いを話した。(滝本匠)

北谷町で沖縄初上映された映画「アリランラプソディ」=29日、北谷町のちゃたんニライセンターカナイホール

 第2次世界大戦時、朝鮮半島から徴用などで日本に連れてこられた、神奈川県川崎市に住むハルモニが、どういう思いで日本で暮らしてきたのか、いまをどう生きているのか、ハルモニの人生に密着した作品。ペルー出身の大城正子さんも登場する。川崎での外国人へのヘイトスピーチの様子とそれへの抗議も収めている。

 金さんは大阪市鶴橋生まれの在日コリアン2世。1世の母から苦労した人生を聞けないまま亡くしたことへの後悔から、川崎のハルモニたちを記録するようになる。在日1世のおばあちゃん(はんめ)の日常を撮った映画「花はんめ」(2004年)で監督デビュー。初作品以降、狭山事件や袴田事件など冤罪がテーマの4作品も発表している。「花はんめ」は「植民地支配から語り始めることはやめよう、いま生きているハルモニたちを描いてみたい」との思いで製作した。

映画「アリランラプソディ」の沖縄初上演後、舞台で話す金聖雄監督=29日、北谷町の北谷町のちゃたんニライセンターカナイホール

 子どものころは「キムチを食べる」という理由で差別されいじめられた。住んでいる場所は「あそこには行かないように」と周りから言われた。そんな時代だった。

 それが、この20~30年の間で韓国に対する日本国内のイメージが激変した。Kポップアイドルを愛で、韓国料理を楽しむ。配信サイトにはヒットした韓流ドラマが並ぶ。

 「それでも」と金さんは言う。韓国のコンテンツを楽しむ人たちを見ていて「あの人たちがどれだけ在日の歴史に思いを寄せているだろうか」と考える。

大勢の映画観覧者を前に撮影の経緯などを語る金聖雄監督=29日、北谷町のちゃたんニライセンターカナイホール

 ハルモニたちの住む川崎では外国人に向けたヘイトスピーチのデモが繰り返される。ハルモニたちにも矛先が向いてくる。

 ヘイトスピーチにカメラを向けた金監督は「ハルモニたちが生きてきた歴史が、なにかすっぽり抜け落ちている気がしてならなかった」と語る。「植民地のこと、戦争のことを語れる最後の世代のハルモニたちが、どんなふうにして権利を奪われていまがあるのかを、いま記録しなければ駄目なんじゃないか、そんな小さな使命感をもって作った」と今作製作への思いを語る。

 「アリランラプソディ」には、ハルモニたちが安保法制案に反対してデモする姿や、沖縄・読谷村で「集団自決」(強制集団死)のあったチビチリガマを訪れたり、朝鮮から強制連行された軍夫を慰霊する「恨(ハンン)之碑」で手を合わせて涙したり、沖縄戦体験者との交流シーンも収めた。

 撮影当時も立ち入りが制限されていたチビチリガマには、地元住民に案内されてガマの中に入りカメラを回した。「ずっと形にしなければと引っかかっていた」と振り返る。

映画観覧者と笑顔で言葉を交わす金聖雄監督=29日、北谷町のちゃたんニライセンターカナイホール

 沖縄初上陸の「アリランラプソディ」の上映に緊張すると話した金さん。「沖縄を何か描こうというような思いで来たのではなく、ただハルモニたちに付いてきて。それでも、自分が沖縄のことを何か撮っていいのか、映画にしていいのか、という思いがあった」と沖縄上映への思いを語った。

 在日の苦難の歴史とはまた別の沖縄の歴史にも向き合う金さん。今回の来県ではあらためて「恨之碑」も訪れ、新基地建設に反対する市民らが座り込む名護氏辺野古の現場にも足を運んだ。

 「どれだけ自分自身が本当に戦争のことをわかっているのか。あの人たちの苦労、そしていま世界で起こっていること、この沖縄で起こっていることについて、自分がどこまで、受け止めているのか、リアルに感じているのか、いつも自分の中で疑問がわいてくる」

 その問いは、われわれ一人一人にも向けられている。