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<メディア時評・「沖縄ヘイト」番組>報道倫理の基本逸脱 メディアも消極的に加担


この記事を書いた人 Avatar photo 琉球新報社

 東京ローカルの放送局・東京メトロポリタンテレビジョン(MXテレビ)が1月に放映した番組「ニュース女子」が問題視されている。まさに「沖縄ヘイト(憎悪)」が問われているわけだが、放送の在り方の観点から問題を整理しておきたい。

事実を伝える

 ジャーナリズムの基本は、事実(ファクト)をきちんと伝えることだ。放送法でも事実報道が規定されているが、それを超えて番組の作り手にとって最高位の倫理といえる。

 実際は、時間の制約や物理的限界から、その時点で取材者が最も真実に近いと思うことを伝えることになるわけで、判例上もそうした事情を勘案して「真実相当性」といった特別ルールを作って、結果として事実でなくてもその姿勢を認めて、法律上は罪に問わないといった仕組みを用意している。

 しかし倫理上、その際には真摯(しんし)に真実追及の努力をしたか、真実ではない可能性を常に考慮して誠実に報道内容を伝えたか、といったことが厳しく問われることになる。この点からすると、当該番組の作り方は杜撰(ずさん)との批判を免れまい。

 放送された映像では、十分な取材を「しない」言い訳として、取材現場が危険なため「できない」としている。しかしそれは、取材放棄ともいえる行為である上、それ自体が視聴者に「反対派は怖い」というイメージを醸成させる役割を果たしている。始めから結論ありきで、基地反対運動を誹謗(ひぼう)中傷することが目的とすら思える番組構成だからである。

 結論に当てはめて都合のよい「目の前の事象」のみを取り上げ、それを基に持論を展開する形式をとっている。「真実」と言っているものの、その内実は「フェイクニュース(嘘(うそ))」そのものとの指摘が当事者からなされている。

意見との峻別

 さらに、番組の作り方は「事実と意見の峻別(しゅんべつ)」という報道ルールにも反するのではないか。実際に取材をして得た証拠(エビデンス)に基づく事実と、それに基づいて述べる自分の主張・論評は明確に分けて番組を作る必要がある。しかし当該番組の場合は、リポーターがその両方の役割を兼ね、都合のよい事実に基づき結論を誘導する解説を付した上で、さらにスタジオコメントを行うという構成になっているからだ。

 もちろん、主張は一方的でもよい。言論の多様性という観点からは、テレビメディアでは取り上げられることが少ない見解(この番組が言う「マスメディアが取り上げない『本当の真実』」)が紹介されることも賛成だ。しかし、嘘あるいは嘘かもしれない事柄を基にした意見は、いわば「悪意を持ったデマ」の類いであって、それは嘘の報道同様、報道倫理上許されない。出演者の意識は知る由もないが、そう思われかねない作り方ということになる。

メディアの加担

 3つ目には、メディアが分断を煽(あお)っていることの問題性だ。

 最初に「きちんと事実を伝える」ことが報道倫理の基本だとしたが、当然、その時々の事情によって「配慮」が求められることがある。その典型例が匿名報道で、人権等に配慮して人物が特定できないよう名前を秘したりしている。当該番組でもモザイクをかけた場面が出てくるが、これはまさに、制作者が人権配慮をしている証拠だ。

 同様に、社会的責任を有するメディアとして、「人道配慮」からみて好ましくない報道姿勢がある。例えば、戦争をけしかけるような報道はその一つといえるし、社会の分断を煽るような報道も控えるべきものだ。しかし番組は、「反対派=悪」のレッテル貼りによって、意図的に二項対立の構図を作り、分断を煽っている。主張が一方に偏ることはあっても、別の見方を全否定し、しかも人格的にも認めないような扱いをすることは、メディアの在り方として好ましくなかろう。社会に存在する〈違い〉を認め合うことで、私たちは強くなっていくのであって、メディアもまた、その立場から番組を作ることが求められている。

 しかしこうした状況は今回の番組だけに当てはまるものではない。昨年10月、大阪府警の機動隊員による「土人」「シナ人」発言があった時は、関西圏で発言を擁護するかのような報道があり、もともと悪いのは県民側という論調になった。こうした差別構造の助長こそが、今日のメディアの最大の問題ともいえる。

 さらにはこうした「積極的な加担」の一方で、多くのメディアの「消極的な加担」ともいえる状況も進んでいる。政府の沖縄メディアに対する抗議や政党・政治家による偏向報道批判を、多くの新聞やテレビが「そのまま」伝えることで、結果として沖縄に対する偏見が広がってはいないか。山城博治沖縄平和運動センター議長の逮捕をストレートニュースで伝えることで、「反対運動をしているのは、危ない人たち」とのイメージが定着しつつありはしないか、という問題だ。

 これらは、政権の政治的意図と結果として一致を示すものでもあって、権力監視というジャーナリズムの立ち位置からしても注意が必要だ。こうした意識・無意識の加担状況を変えるためには、今、問題となっている「嘘ニュースが事実を書き換える」事例を放置することなく、各メディア自身が誤りを正す報道をし続けるしかあるまい。それこそがまさに、ジャーナリズムの存在意義だからだ。
(山田健太 専修大学教授・言論法)