知事として平和行政推進 大田昌秀氏


この記事を書いた人 松永 勝利
県議会本会議で米軍用地強制使用手続きの代理署名を拒否することを表明した大田昌秀知事

 1990年から2期8年にわたって沖縄県知事を務めた大田昌秀氏が6月12日午前、呼吸不全・肺炎のため死去した。大田氏は県政運営の柱に「平和・共生・自立」を掲げた。その中でもとりわけ、敵味方、国籍を問わず沖縄戦全戦没者の名前を刻印して永久に残す「平和の礎」の建立、平和祈念資料館の移設と展示内容の充実、県公文書館の建設など「平和」行政の推進が大田県政最大の実績といえる。

 慰霊の日の在り方も変えた。従来、行政と遺族だけが参加する沖縄全戦没者追悼式典のみの「慰霊の日」から、全県民が参加できる「慰霊の日」へと転換させ、「6・23沖縄平和祭」と銘打ち、県内各地で慰霊の日前後にイベントなどを開催した。

 県政の最重要課題だった基地問題を巡っては、96年に沖縄のあるべき将来像を描いた「国際都市形成構想」と段階的に基地を返還させる「基地返還アクションプログラム」をまとめた。これらの政策は沖縄の自立的発展を県自らが描いた画期的なもので、時代に先駆けた内容となった。その理念は現在の沖縄21世紀ビジョンなどに引き継がれている。

 基地問題でも沖縄の過重負担の解消を主張した。95~96年にかけて、米軍用地の強制使用にかかる公告・縦覧代行いわゆる代理署名を拒否し、代理署名訴訟で国との裁判闘争に発展した。大田氏は裁判を通じて、日米安保の全国平等負担を主張し続けた。

 最高裁の意見陳述で大田氏は「憲法の主要な柱の一つとなっている基本的人権の保障および地方自治の本旨に照らして、若者が夢と希望を抱けるような、沖縄の未来の可能性を切り開くご判断をされるよう心からお願いする」と訴えた。県は敗訴したが、裁判は地方自治の在り方や民主主義の本質も問われた。【琉球新報電子版】