沖縄戦と米軍基地 つなげたい「不戦」の思い


この記事を書いた人 Avatar photo 琉球新報社

 米国で痛感するのは、軍に対する認識の違いだ。中東などへの軍事介入を報じる米政府の発表やテレビ番組では「米軍はわが国を守るため、正義のために戦っている」と報じられ、軍人や帰還兵は賞賛される。一方、街角では「私は退役軍人」と書いた紙を持ったホームレスの人が「ペニー(1セント硬貨)を」と請う姿を見かける。

 どの国も、どの時代も、権力が始めた戦争で犠牲になるのは一般の人々。爆撃下に逃げ惑う人々の姿を思い、軍産複合体の存在に悶々としながら、バージニア州の地元紙に沖縄の現状について寄稿したスティーブ・ラブソン米ブラウン大名誉教授の話を聞いた。

 ラブソン氏は徴兵制度で1967年から1年、今まさに日本政府が新基地建設を強行する名護市辺野古のキャンプ・シュワブに隣接した辺野古弾薬庫に駐留した。米軍占領下の沖縄を見て「とても不公平だと思った。沖縄の復帰運動は米国の公民権運動に重なった」と語る。兵役後、上智大で日本語を学び、もともと専門だった文学の研究者として、数々の沖縄文学作品を英訳している。

 「米国民は何も知らない。まず沖縄のことを伝えることが大事だと思う」というラブソン氏から逆に質問を受けた。「沖縄の若い人は基地問題に関心がないと聞くけど、どうなの?」

 恥ずかしながら、沖縄の米軍基地の成り立ちを知ったのは記者になってからだ。沖縄戦の体験者を取材する中で、日本軍が建設した飛行場が米軍に狙われ、まるでオセロのコマをひっくり返すように米軍基地に変わり、米軍の爆撃拠点になったことを聞いた。そして、初めて戦前生まれの親に話を聞いた。

 母は12歳の時、対馬丸と共に那覇を出港した暁空丸に3歳下の妹と乗船した。魚雷を受け火柱の上る対馬丸を震えながら見たという。母の姉、私が伯母さんと呼ぶはずだった少女の写真はひめゆり平和祈念資料館に飾られている。平和学習で習ったはずの「対馬丸」「ひめゆり」が家族の歴史とつながった時に初めて戦争がリアルになり、基地のある風景とつながった。

 「不戦、沖縄は不変」。ラップのように韻を踏んだ見出しの24日付本紙1面と、同僚が初めての試みとしてインターネット大手のヤフーと制作した沖縄戦体験者の動画を見た後、考えた。国境や世代の違いを超えてどう体験や共感をつなげていけるか。沖縄と似た蒸し暑い青空の下、1日遅れの黙とうをささげた。
(座波幸代本紙特派員)

英文へ→Addressing disparate viewpoints on war between United States and Okinawa