<未来に伝える沖縄戦>10・10空襲、級友も死傷 大城宏捷さん


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 大城宏捷さん(80)は那覇の久茂地で生まれ、1944年10月10日の「10・10空襲」の時は、松山国民学校の2年生でした。空襲の日、兄の政祐さんと那覇港から乗船し、九州へと疎開する予定でしたが、米軍は那覇をはじめとする県内の主要な港を攻撃しました。生まれ育った町並みは一面焼け果て、火と煙は翌日夜まで那覇の空を赤く染めたといいます。45年4月の沖縄本島への米軍上陸後、宜野座村で米軍に捕らわれました。その後、那覇に戻った大城さんは、死体が至る所にあったことを覚えています。大城さんの体験を那覇市立松城中学校3年の金城那由子さん(15)、大城明香里さん(15)が聞きました。

自身が体験した10・10空襲を語る大城宏捷さん=8月1日、那覇市繁多川の自宅

 《大城さんは1937年1月2日、那覇市で生まれました。松山国民学校2年生だった44年10月10日、兄と船に乗って九州に向かう予定でした》

 兄が学童疎開の対象で、私も一緒について行くことになりました。10・10空襲の前日に船に荷物を積み込んで、あとは乗って向かうだけでした。当時、同じように学童を乗せて本土に向かっていた対馬丸が沈没したことは両親も全く知りませんでした。

 10月10日の早朝、消防団をしていた父が家を出て隣近所を巡回していたら、飛行機が飛び始めました。6時半ごろから、飛行機が飛んだと父は言っていましたが、空襲で那覇港が最初にやられたのでしょう。

 異変に気付いた父は「これは演習ではなくて、実弾射撃だ」と思い、すぐに家に戻ってきました。そして私と兄に「もう今日は危ない。船に行くな」と言っていました。港が狙われていることを分かっているようでした。

 その足で家族全員でテルカワバル(牧志村照川原)と呼ばれる、今のジュンク堂書店の裏側のあたりにある丘に掘った防空壕へと逃げました。当時、那覇では防空壕を掘る場所がなく、公的には家の床下に穴を掘って、そこに逃げるよう指令が出ていました。

 でも両親は「それでは危ない、火事になったら全滅だ」ということで、照川原に穴を掘り、10・10空襲のころにはできあがっていました。そこに親戚3家族で逃げていました。

 《10日午前7時、沖縄本島に空襲警報が発令されます》

 音は少し離れていましたが、防空壕の中からでも飛行機の激しい音、機銃掃射の「パラパラパラパラ」という音が聞こえました。午後から焼夷弾(発火性の爆弾)が打ち込まれ、民家が燃え始めていました。5回の集中的な攻撃がありました。米軍は計画的に攻撃していたようです。那覇市は焼け野原になるしかすべがなかったのだと思います。小学校の仲間も何人か死傷しています。

 丘の上からは市内の全域が見えましたが、ほとんどが焼け焦げて、家もなくなっていました。残っていたのは家の近くにあった「電気会社」と呼んでいた発電所と教会の建物で、コンクリートだったために残骸だけ残っていました。夜になっても、炎で真っ赤に空が染まりました。2日ぐらい燃えていたと思います。

 その後は、牧志の母方の実家に身を寄せました。当時、日本軍の徴用で連れてこられた朝鮮の人たちもいました。当時の日本軍は朝鮮人の軍夫の人にあまり食事を与えていませんでした。母方の実家は農家だったので、イモがたくさんありましたが、それを朝鮮の方がもらって食べると(日本軍に)殴られているのを見たことがあります。

※続きは8月9日付紙面をご覧ください。