<未来に伝える沖縄戦>ミンダナオ島逃げ惑う 新垣須磨子さん


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 新垣須磨子さん(86)=沖縄市=はフィリピンのミンダナオ島で戦争を体験しました。マニラ麻の栽培やクリーニング店の経営をして暮らしていた新垣さん一家の平和な生活は日本軍がハワイを攻撃した真珠湾攻撃で一変します。大混乱の中、両親と弟が亡くなりました。太平洋戦争の末期、米軍がミンダナオ島に上陸し、新垣さんはジャングルを逃げ惑いました。米軍の激しい攻撃と食糧不足に苦しんだ新垣さんの体験を、県立北谷高校3年の新里航平さん(17)と比嘉夏香さん(18)が聞きました。

「戦争というものは人を人でなくす。親を親でなくさせる。人間性を失う」と語る新垣須磨子さん=4日、沖縄市山里

 《新垣さんは1931年4月29日、アメリカに統治されていたフィリピン・ミンダナオ島のバゴ耕地で生まれました。5人きょうだいの長女だった新垣さんは開戦後の混乱のなか、両親と弟を失います》

 両親は「子どもたちに良い教育を受けさせたい」という思いでバゴ耕地からカリナン、ダバオに移り住みながら各地の国民学校に通いました。

 41年12月8日に真珠湾攻撃がありました。そのころから大人たちが「そろそろ戦争になるみたい」と話すようになったんですよ。その数日後、フィリピン兵が日本人を現地の中国人学校に収容し、ずっと監視していました。

 私は両親と末っ子の弟とは別々でした。収容されて12日後に、学校の周りにはガソリンが入った一斗缶が置かれました。「そろそろ火が付けられて、日本人が殺される」という話が出始めた時、フィリピンに上陸した日本軍によって学校から解放されました。

 でも、その後に別の場所で両親と弟が日本人に恨みを持ったフィリピン人によって殺されたと人から聞きました。私とほかの弟は母の弟に当たるおじさんに引き取られ、トリルという町にあるダリアオン国民学校に通いながら生活していました。

 おじさんは軍属として陣地造りのためにかり出されていました。私たちも飛行場造りのため、勉強もしないで砕石を並べる作業員として働いていました。

※続きは8月23日付紙面をご覧ください。