対馬丸、歌で継ぐ 奄美・宇検できょう慰霊祭 引率者息子の田名さん決意


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宇検村に建立された対馬丸慰霊碑=25日、鹿児島県宇検村の船越海岸

 【鹿児島県宇検村で中村万里子】対馬丸の犠牲者のみ霊を慰め、悲劇を語り継ぐため、今年3月に慰霊碑が建立された奄美大島・宇検村で初めての慰霊祭が26日、行われる。慰霊祭には、宇検村長をはじめ、当時救助に当たった人たちや近隣の小中学校に通う子どもたちも参加する。

 73年前、宇検村には、対馬丸から投げ出された21人が漂着した。学童引率者の責任者として乗っていた田名宗徳さんもその1人だ。宗徳さんは、自らが疎開を勧めた子どもたちを死なせてしまった負い目を抱き続け、40年前に亡くなった。息子で歌手の田名剛さん(62)=大阪市=は今、「一人でも多くの人に知ってほしい」と、対馬丸のことを歌で語り継いでいる。

 宗徳さんは当時、那覇市の天妃国民学校の訓導(教諭)だった。対馬丸が撃沈された後、イカダで数日間、漂流した。奄美大島の宇検村海岸に流れ着き、手厚い看護を受け生き延びた。

 疎開先の宮崎県から沖縄に戻ったのは、1946年。宗徳さん自身も、対馬丸で一緒だった母親と娘を亡くした。しかし、息子の剛さんにいつも語っていたのは、自らが疎開させ、命を奪われた子どもたちのことだった。

 「お前ぐらいの子をたくさん死なせてしまった。沖縄は絶対に地上戦になるので、疎開させるため、あっちに行ったり、こっちに行ったりした」。小学生だった剛さんは、悔しそうな父親を鮮明に覚えている。

 「父親は、親たちに『ごめんなさい』と頭を下げて回ったが、親たちからは一度も憎まれたり、責められたりしたことはなかったという。『よく無事に帰ってくれた』と言われ、頭の下がる思いがしたと言っていた」

 それでも責任を感じていた宗徳さんは、二度と教壇に立つことはなかった。海に投げ出され、亡くなった子どもたちの供養をすると、水産関係の仕事に就き、剛さんが22歳のときに亡くなった。

 とても厳しかったが、人と人とが助け合うことの大切さを説かれ続けた。剛さんは、「若い頃は分からなかった。年がいくほどに、親父への思いがどんどん強くなる。あと8年で死んだ父親と同じ年になる。でも親父には勝てない」と語る。

 歌「ああ対馬丸」には、「父親の思いが全てこもっている」。4番まであるが、最後まで歌うことができず、情けないからと歌ってこなかった。しかしここ最近は、戦争に突き進むような国にしないため、対馬丸の悲劇を語り継がなければいけないという思いを強めている。

「父の代わりというと大げさだが、僕にできるのは歌うこと。歌を聴いて興味を持ってもらえるかもしれない。だから、どんどん歌っていこうと思う」と力を込めた。