<未来に伝える沖縄戦>10・10空襲が生活破壊 浜田静江さん


この記事を書いた人 Avatar photo 琉球新報社

 浜田(旧姓阿嘉)静江さん(82)は那覇市の下泉町(現在の泉崎と久茂地)で生まれました。今はない甲辰国民学校の生徒だった1944年10月10日、「10・10空襲」を目の当たりにします。兄1人は九州へ向かった疎開船対馬丸で犠牲となり、弟1人を避難先の北部で亡くした悲惨な体験は、今も忘れることができません。浜田さんの体験を、琉球大学付属中学校2年の瀬名波壮駿さん(13)と近本晴海さん(13)が聞きました。

10・10空襲の体験や北部への避難について語る浜田静江さん=14日、中城村奥間の自宅

 《浜田さんは34年に生まれました。父は那覇市で織物業を営んでおり、戦時中は兄2人弟4人がいました》

 昔は自家用車がないから道は安全で遊び場でした。1年に1回の高潮の時には満ち潮で海水が(久茂地川をさかのぼって)洪水のように道にあふれ、そこで遊びました。潮が引くと土手ができ、青や赤の色とりどりのカニがいて、見るのが楽しかったです。

 《のどかな風景も戦争で一変します》

 次男の兄が「どうしても自分は本土に行く」と言って、44年8月21日に対馬丸に乗って行きました。(対馬丸は米潜水艦の魚雷を受けて沈没し、兄が犠牲になったため)もう驚きました。私の両親は悲しむ暇もなく10月10日を迎えます。

 火曜の朝、私たちはゆっくり朝ご飯を食べていました。すると「ヒュールヒュル」と聞いたことのない音がしました。箸を持ったまま縁側に出るとすごい音。港のほうで「ボンボンボン」と大きな音がしました。隣の酒屋にいる海軍帰りのお兄さんが「本物の空襲です」と飛んできました。着の身着のまま、裏の小さい壕に入りました。

 戦争というのはどこかの国であるんだろうと思っていたので、度肝を抜かれました。近くの泉崎橋の近くに爆弾が落ちたようで、爆風がうちの家までも来てすごかったです。

 午後に父が「ここから逃げないと焼け死ぬ」と言いました。壕から出た時、川向こうは火の海でした。隣の酒屋さんはぐちゃぐちゃに壊れていました。あの火を見た時は、ただ恐ろしさだけを感じました。

 甲辰国民学校を通って、しばらく行くと子どもたちの遊び場の大きな木がありました。荷車が二つほど並び、全身包帯で巻かれた人が4人置かれていました。近づくと目、鼻、口がある。1人の目と口が動きました。それを見てびっくり仰天しました。火を見ても泣かないのに、怖くて大声で泣きました。

 家や学校は焼けてしまったので、父の遠い田舎「ンジュバル」という所へ逃げました。そこでしばらくいた後、父の出身地の首里に移り住みました。弾は落とさないが、毎日というほど爆撃機が飛んできました。サイレンが鳴り、坂の上の壕に逃げました。

※続きは9月27日付紙面をご覧ください。