<未来に伝える沖縄戦>日本軍接収、学びや失う 金城正篤さん


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 旧兼城村(現糸満市)潮平で生まれ育った金城正篤さん(82)は、戦時色が色濃くなる社会の中で幼少期を過ごしました。沖縄戦時は小学校4年生。米軍の攻撃から逃れるため、潮平区民と共に地域のガマ「潮平権現壕」に避難します。子どもの目から見た沖縄戦の様子や当時の思いを、糸満市立潮平中学校1年の呉屋ひよりさん(13)と上原頼さん(12)が聞きました。

沖縄戦時の米軍による攻撃の様子を語る金城正篤さん=糸満市の潮平中学校

 《金城さんは1941年4月に兼城国民学校に入学しました。この年、小学校は「国民学校」に名前が変わり、個人よりも国家に価値を置く教育がいっそう押し進められます。同年12月には日本軍がハワイ真珠湾を攻撃し、太平洋戦争が始まりました》

 日本軍が真珠湾を攻撃した時、国民はお祝いムードでした。僕らもちょうちんをぶら下げてお祝いしました。その頃、私たちが学校で使っていた教科書には「ヘイタイサン ススメススメ」と書かれていました。今の子どもたちにはそれぞれ夢があると思いますが、私たちの時代の男の子の夢は「兵隊さんになる」。それが模範解答でした。

 当時、弁当時間になると子どもたちは声をそろえて「箸取らば 天地御代の御恵み 君や親の御恩味わえ」と、先生に教えられた言葉を唱えました。「箸を取る時には天皇陛下と両親の恩を感じていただきなさい」という意味です。今の時代から見ると変な風景かもしれませんね。

 このように沖縄にも少しずつ戦争の気配が近づいていましたが、幼い僕は世の中の動きがよく分からず、無邪気に友人たちと遊んでいました。

 しかし、「戦争が近い」とはっきりと感じたのは、沖縄に第32軍が配備され、私たちが通う兼城国民学校が日本軍に接収されて兵舎になった時です。私たちは学びやを失いました。さらに子どもたちも軍隊に動員され、陣地構築に必要な松の木の皮はぎを一生懸命やりました。幼い僕らも戦争に協力したわけです。

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 《1945年3月23日。米軍の攻撃が始まると、金城さんら潮平区民は地域の自然壕「潮平権現壕」に避難します。壕は約200メートルほどの長さで、約500人が隠れることができる大きさだったといいます》

 最初のうちは米軍の攻撃の合間をぬって、イモを炊きに壕から家に戻っていました。皆さんは鍋でイモを炊いたことはありますか。イモを炊くのはものすごく時間がかかるんだ。昔の農民の家には薪がなく、まだ枯れていない木の枝やススキなどを拾って火をおこしました。イモを炊いている途中に空襲警報が鳴ると、生煮えのイモを持って大急ぎで壕に戻りました。

 攻撃が激しくなってくると壕の中で煮炊きをするようになりました。昼間は煙が上がって米軍に見つかる恐れがあるので夜に煮炊きをするのですが、煙が壕内に充満してもう苦しくて大変。地面の辺りは煙が薄いので、腹ばいになってしのぎました。

 壕は約200メートルほどの長さで両側に出入り口がありましたが、煙が外に出ていくには時間がかかりました。息苦しくて耐えられなくなり外で過ごすこともありましたが、いつ何時、弾が飛んでくるか分からないので不安でした。

※続きは1月24日付紙面をご覧ください。