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<メディア時評・司法行政の隠蔽体質>原則公開も閲覧認めず 「国民共有」の意識欠如


この記事を書いた人 Avatar photo 琉球新報社

 いま国会で民主主義社会の根幹が瓦解(がかい)しつつある。すでに米軍基地問題で、中央政府は主権国家として役割を放棄しており、その意味で政権を維持する資格を持たないが、昨年から中央官庁で続く、公文書の意図的な隠蔽(いんぺい)と改竄(かいざん)、そして国民を欺くデータ誤用は、行政権限を預ける先として到底認められない事態だ。しかも、国民の財産である公文書を扱っている意識を微塵(みじん)も感じさせない官庁の対応と、それをむしろ奨励するかのような政治家の姿勢は、現時点で収まるどころか、まったく終わりが見えない。

後進性

 これらは積極的な情報操作で悪質極まりないが、さらに広い範囲で行政一般において「言わない」ことによる情報コントロールも深刻化している。佐川宣寿国税庁長官(前・理財局長、9日に長官を辞任)の会見拒否がその象徴例だが、沖縄県内でも渡具知武豊・新名護市長が定例会見を廃止することが話題になっている。実際は定例会見をしている自治体は必ずしも多いわけではないものの、「あえて」止めることの意味は問われる必要がある。

 このように、やるやらないをもっぱら首長の恣意(しい)的な判断で決定できること自体、行政執行に関して説明責任があると考えておらず、会見を単なるサービスとして捉えていることの証左であろう。

 しかも、住民ほか日本全体の大きな関心事で、公共性が高い辺野古新基地建設の問題を抱える行政の責任者としては、より一層の説明責任義務がある。継続的定期的な会見を通じて、行政の透明性を担保し、開かれた政府を実現するという基本的な民主主義ルールが、日本においてまったく定着していないことが残念だ。そしてこうした、情報公開・アカウンタビリティーの後進性は、行政だけの問題ではなく、日本の統治機構全体に通底する根の深い問題である。

長官が会見拒否

 なぜなら司法の世界も、その壁の厚さは行政に引けを取らないからだ。それは、寺田逸郎最高裁長官が1月8日に退任した際、定例だった会見を開かず、「黙して語らず」が美学であるかのように受け入れられている点からも明らかだ。

 オウム真理教関連裁判がすべて終結したタイミングであったことも含め、長官がその職を辞するにあたり、報道機関の問いに一切答えないことは、「普通ではない」ことを確認しておく必要がある。司法権も公権力の一翼であって、その最高責任者は司法行政について説明責任があるからだ。

 しかも関わった個別の裁判について「(個人として)一切答えない」のと、「(長官として)一切答えられない」のでは、意味が異なることに無自覚ではないか。広報担当者の回答は後者であって、これは司法の行政トップとして「発言すべきではない」というメッセージを、明らかにしたものと受け取らざるを得ないからだ。

 さらにいえば、長官は三権の長として皇室会議のメンバー(議員)であり、天皇の譲位を決定した責任もある。ちなみに、昨年12月1日に開催された皇室会議の議事概要は、同月8日に宮内庁から公表されたが、そこに記された議員の発言は、10人分すべてをあわせたものとして、わずか100字余り、あまりに空疎な中身である。しかもそれ以外の〈議事録〉ほか「記録は残さない」という、政府方針が確認されたと伝えられている。

 あるいは、「個々の意見を明らかにするのは好ましくない」と皇室会議で合意した、というのが政府説明だ。異論があったのかなかったのかも含めて、一切口外を許さない政府の姿勢を、司法トップがそのまま受け入れる姿勢を示すこともまた、司法の独立を自らが蔑(ないがし)ろにするものといえるだろう。こうして、歴史的にも重要な公式な会議の発言内容は未来永劫(えいごう)、闇の中に消えていくことになる。

原則と例外の逆転

 司法および司法行政に関する情報開示に消極的な体質は会見にとどまらない。いまここで、あらためて厚い司法のベールについて説明を繰り返さないが(2008年9月参照)、例えば、裁判員裁判終了後に実施されている裁判員会見の記録も、当初は詳細なものが存在したが、市民からの開示請求を受け、翌年からは簡素なものに変更された。そもそも司法分野には、文書管理や情報公開に関する法制度が存在せず、現時点では、裁判所が自主的に有する「裁判所の保有する司法行政文書の開示に関する事務の取扱要綱」(15年7月1日実施)に従って、行政サービスとして私たちの要望に応えているにすぎないということになっている。

 さらには、公開で開かれている法廷に提出された裁判記録はおろか、裁判の結論である判決文も、一般市民にとって入手する手だては極めて限定的だ。具体的には、判決文は裁判所が自ら公表するものと、報道機関や商業雑誌を通じて目にするものがほぼすべてであって、直接、判決文を含め裁判記録の開示を求める道が閉ざされている。

 しかし法制度上は公開が原則で、刑事確定訴訟記録法では明確に「閲覧させなければならない」と規定されている。が実際は、同じ条文の例外規定が適用され、関係者のプライバシー保護を理由に、コピーはおろか、ほぼ一律で閲覧さえもできない。とりわけ記者の閲覧は「報道目的」であってプライバシーの侵害が明らかであると判断されており、認められることはないとされる。

 これらは、裁判記録も行政文書同様に公的文書であって国民共有のものであるという認識が、決定的に欠けていることに起因していないか。

 そして、こうしたいわば情報隠蔽体質を変えない限り、いかに裁判員裁判によって市民が司法に参加しても、施行当時盛んに掲げられた「司法を国民の手に」とのスローガンは空文化するだけだ。
(山田健太、専修大学教授・言論法)