10・10空襲 徳島の子から義援金 73年越し「ありがとう」 島袋さん思い、中山さんに託す


この記事を書いた人 大森 茂夫
島袋文雄さん(前列右)から託されて10・10空襲当時の義援金のお礼を伝えに行く中山公子さん(同左)と勲さん=3月21日、那覇市

 義援金をありがとう-。沖縄県那覇市泊在住の中山公子さん(74)が1944年の10・10空襲の際に那覇市に義援金を送った徳島県徳島市の川内北国民学校(現・川内北小学校)を20日に訪ね、お礼を伝える。徳島県出身の中山さんに思いを託したのは、教育史の編さんで義援金の件を知った島袋文雄さん(87)。地域のゆんたく会で知り合ったつながりで“73年越しの感謝”が届けられる。

 島袋さんが徳島県など県外の小学校から那覇市に義援金が送られたことを知ったのは、10年以上前に市の教育史の編さんに携わった時だ。44年12月25日付の沖縄新報には、徳島県の川内北国民学校の児童から那覇市への義援金百円が新聞社宛てに送られたことと児童が書いた手紙の全文が掲載されていた。

(右)徳島県の川内北国民学校から那覇市への義援金が新聞社に届けられたことを知らせる1944年12月25日付の沖縄新報記事

 「お母さんを呼ぶ可愛い女の子にまで敵が掃射をしたといふことを聴き、私たちの血は逆に流れるやうな怒を感じました」「私たちが縄をなったり、いなごをとったり、カマスを織つたりお祭りのお小遣いをしまつたりして貯へてあったお金です」(原文ママ)。記事に掲載された子どもたちの手紙からは、義援金が子どもたちがわずかな小遣いから集めたお金であることも記されていた。

 島袋さんは「いたいけな子どもたちの思いに非常に感激を受けた。お礼をしなければと責任を感じた」と振り返る。市長に感謝状の手交や相互交流を働き掛けたが、実現しなかった。

 あきらめかけた思いに光が差したのはことし1月。泊で開かれたゆんたく会で徳島県出身の中山さんと知り合った。高齢のため、自身では県外への移動が難しい島袋さんは「ぜひ感謝を伝えてほしい」と依頼。中山さんは「ご協力できれば」と引き受けた。4月に夫の勲さん(79)が同級生会で徳島県に行く予定があり、20日に訪ねることになった。

 中山さんが調べると、義援金を送った当時に子どもだった人も地域に住んでいるという。今回会えるかは未定だが、中山さんは「貧しい中で子どもたちがこれだけのお金を送ったことがすごいと思う。島袋さんの思いと感謝を伝えたい」と話した。(田吹遥子)