prime

<メディア時評・放送制度見直し>問われる自由、公共性 テレビ直接規制の懸念


この記事を書いた人 Avatar photo 琉球新報社

 まさに唐突に出てきたのが、3月半ば以来の放送制度の全面見直しである。ただしその伏線として、2月の衆議院予算委員会やその前の新経済連盟新年会でも、安倍首相が「テレビもネットも同じ」との発言をしていた。そうしたなか3月になって、放送はNHKだけで民放は不要であり、放送法に関する規律をなくすという話が報じられ、一気に火が付いた形だ。

 その後4月に入って、政府は質問主意書に対して「放送法4条撤廃の具体的検討はしていない」と回答、沈静化を図っている。しかし根底に存在する、放送を大幅に縮小し、その分、携帯ほか通信事業に周波数の帯域を開放することで新規参入を促し、経済活性化を図るといった、いわば現政権の得意技である強引な岩盤規制突破策は健在だ。

 そしてこの新たな「放送」政策は、これまでの社会を支えてきた放送事業の基本構造を大きく揺るがすことにより、放送の自由や放送の公共性を変質させることになりかねない。

規律撤廃

 第一に新方針は、よく話題に上がる政治的公平を含む番組準則をはじめ、さまざまな種類の番組をバランスよく編成することを求める番組調和原則、有識者による番組審議会(番審)などの放送規律を撤廃するとしている。一見、放送を縛り行政介入の口実となってきた放送法の規定がなくなることは、自由の拡大のように見える。もちろん表現の自由にとって、「何も内容規制がない」ことはよいことである。したがって、通信・放送の分野でも規制がないのが究極のかたちであることは間違いない。

 しかし大切なのは、そもそも放送法は、放送を規制するためのものではなく、放送の自由を守るためのものであるということだ。法律が一般市民の行動規範として、やってはいけないことを定めているのに対し、憲法は公権力の恣意(しい)的な権力行使を戒めるものであって、いわば国を縛る基本ルールである。そして放送法は、「健全な民主主義の発達」のために放送の自由保障を定めていることからわかる通り、いま話題の情報公開法同様に、まさに憲法的な、国を縛り市民の自由のための法律であることを知らなければならない。

 免許・認可事業は行政圧力がかかりやすい分野であるがゆえに、公権力の身勝手を抑える役割を果たす歯止めの法律が必要だ。したがって、放送法の規律を撤廃するのは、自由拡大ではなく、自由縮小につながる恐れがあり、公権力の直接規制の道を開くことに他ならない。

 残念ながら、その意味合いをここ30年間、政府が勝手に変え、番組規制根拠や報道圧力の道具にしてきた経緯があるがために、前述したような「なくなることが自由拡大」という誤った印象を持ちがちになるのである。したがってもし現行法を変えるのであれば、大切なのは放送の自由の保障であり、そのためにも放送人の職責が求められており、その一つの目安が事実報道や公正さをうたった番組準則であるし、自律制度としての番審であるという本来の姿に戻すことが先決だ。その上で、その不十分なところを直すのが本筋ということになる。

民放の役割

 第二に新方針は、放送における民放は不要で、NHKがあれば十分とする。これは、従来の放送の公共性の在り方をほぼ全否定するものだ。戦後の放送体制は、NHK(公営)と民放(民営)という2種類の公共性を有する放送メディアによって形成されてきた。こうしたなか、最高裁も先の受信料判決で認めた(当欄17年12月)ばかりの、放送の二元体制をなくしNHKだけの放送が、より豊かで面白い放送番組につながるか吟味が必要だ。

 さらにいえば、規制撤廃=自由拡大という新自由主義的発想は、こうした文化の破壊をもたらすもので、しかも一度壊れた文化は元に戻せない。とりわけ分断化が大きな課題となっているいま、社会共通の言論公共空間が必要で、その中心的な担い手が民放を含む広義の公共放送であろう。しかも放送の自由の構成要素である、多様性と地域性を確保するために、民放の存在は大であって、むしろ実現のための社会的役割(責任)を負ってきた。

 しかも、こうした文化的社会的機能についての議論が、内閣府・規制改革推進会議の投資等ワーキング・グループという、経済的側面を中心とする場で検討され、しかもその討議過程について不透明なのも心配の種である。2018年夏ごろに第3次答申を出す予定だが、会議は非公開で、開催日時も直前まで秘密という秘密主義で、議長の会見もない(ちなみに、メンバーの1人が「ニュース女子」の司会進行役を務める長谷川幸洋・東京新聞論説委員である)。

 経済論理で表現の自由や公共性を扱うことの危うさは、竹中平蔵総務大臣(当時)が推進役となっていた「通信・放送の在り方に関する懇談会」(2006年)で経験済みだ。さらにさかのぼれば90年代、同じ規制緩和の観点で検討が進んだ新聞・出版等の再販(定価販売を事実上規定する再販売維持制度)論議でも、同様の問題点が指摘された。当時、官邸とともに再販撤廃を主導した公正取引委員会(公取委)は、渋々ながらも文化的側面での議論をする必要性を認めた経緯もある。

 放送行政の所轄である総務省の「放送を巡る諸課題検討会・放送の未来像分科会」(18年夏に最終報告書の予定)とも調整ののち、早ければ18年臨時国会もしくは19年通常国会に、放送法改正法案を提出したい意向が政府にはあるとされる。

 通信と放送の区分けに関し、法制度が実態に合っていないことは事実で、その見直しは必要だ。しかしそのための道筋のつけ方と議論には、丁寧さが求められる。政府の側には「アベマTVに出演した時の『成功体験』が忘れられないのではないか」といった邪推を跳ね返すだけの重厚な理屈が必要だし、放送界側にも既得権益の擁護ととられない、真に視聴者にとって望ましい形の提示が期待されている。
(山田健太、専修大学教授・言論法)