59年宮森小墜落 米軍「神経症」賠償せず 本国が否認勧告 


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米軍ジェット機が宮森小学校に墜落(1959年6月30日)

 1959年6月の沖縄県の宮森小米軍ジェット機墜落事故で、複数の児童に精神神経症の症状があったにもかかわらず、在沖米空軍が被害者の賠償請求に対応していなかったことが、16日までに分かった。石川・宮森630会が米国立公文書管理記録局の資料から確認した。当時、被害者には不眠や不登校、大きな音を怖がるといった症状が現れていたが、米軍側は最後まで賠償責任を否定し続けた。資料には、米空軍が被害の賠償額の査定を始めるにあたり、本国から「賠償を是認しないよう勧告された」とも記されている。 

 資料には被害者の治療過程や米国側との協議、遺族と被害者への賠償交渉の内容、住民らの声などが克明に記されている。

 米軍との交渉では、子どもたちが事故後、「夜、突然叫び出す」といった症状があるとして診断書を添えて賠償責任を追及している。しかし米空軍は、米陸軍病院で当該児童の診察を実施したが「そうした症状はみられなかった」とし、最後まで精神的な症状を訴える児童への賠償に応じなかったとしている。

 元琉球大学教授で、資料を監修する保坂廣志さんは「賠償金を認めなかったのは、(精神的な症状に関する)学術研究が進んでいなかったことや、米本国での類似裁判の判決も分かれていたことなどが影響していたのではないか」と推測している。

 資料には、米空軍との交渉に立ち会った米国民政府(USCAR)や琉球政府の担当者らが、精神的疾患を訴える児童に対して、米空軍による消極的な対応を疑問視していたことも記されている。

 宮森630会は事故から60年の節目となる2019年に、米国の資料をまとめた資料集の発刊を目指しており、12日にうるま市石川の事務所で開かれた関係者の初会合で神経症に関する記述の存在が報告された。

 保坂さんは、賠償交渉が米国の法律に従って進められたことや、請求額の10分の1以下と被災者の要望や感情を鑑みない米空軍の対応に着目。「賠償問題は人権問題だ。資料には被災者、遺族の痛みや悲しみの声が生々しく書かれている。彼らが何を訴えていたのか、丁寧に訳したい」と話した。
 (上江洲真梨子)

 【宮森小米軍ジェット機墜落事故】1959年6月30日午前10時40分ごろ、米軍嘉手納基地を飛び立ったF100D型戦闘機が、現うるま市石川の宮森小学校近くの住宅地に墜落。衝撃で跳ね上がった機体が宮森小学校に突っ込み、死者18人(うち1人は後遺症で死亡)、重軽傷者210人を出す大惨事となった。戦後の沖縄で最大の米軍機事故ともいわれている。