prime

<メディア時評・著作権法改正>揺らぐ表現の自由 経済論理 文化歪める


この記事を書いた人 Avatar photo 琉球新報社

 混迷が続く国会の最中、さしたる議論もなく成立する法案もある。その一つが著作権法改正だった。ただしこの改正は、著作物を著作権者の許可なく無断でコピーすることを認めるもので、従来の著作権制度を根本から揺るがすだけに、きちんと振り返っておく必要がある。

人格権

 著作権の概念は、大量印刷(複写)が可能になった活版印刷技術の普及を契機として生まれたとされる。ただしこの時点では、いわば著作権は印刷事業者が有するとされていた。近代著作権法の始まりは一般に、アン法と呼ばれる1709年にイギリスで成立した法律で、著作権をそれまでの事業者ではなく、創作者に与えたという意味で、まさに画期的なものであった。その後、1886年に締結された国際条約(ベルヌ条約)でも、著作権は創作者のものであることが明記された。そして1928年の改正で、いまに続く「著作者人格権」の規定が誕生したというわけだ。

 法律解説書においても最近は、「著作者人格権は著作権ではないにもかかわらず、著作権法に明記されている」と指摘するものさえあるが、これは間違いだ。あくまでも著作権は、著作者(創作者)が自身の創造物を、わが子のようにいとおしく思う気持ちを法的に保護するための制度であって、その中核が人格権としての著作者人格権ということである。そして、同時にその著作物を複写するなどして利活用するにあたり、その版権(著作物の財産権)を「著作財産権」と規定していることになる。

 一般に「著作権」といった場合、後者の財産権のみをさす場合があり、そのために著作権=著作財産権(複製権・使用権)といったイメージが出来上がってしまっている。いわば、広義の著作権(著作人格権と著作財産権)と狭義の著作権(著作財産権のみ)があるということだ。

 そして日本は、この著作権法の考え方に従って法制度を作り、運用してきた。最初の著作権保護規定は1869年の出版条例とされているが、これはまさに事業者のための法制度で、しかも目的は出版事業を取り締まるための方策であった。その後、版権保護の規定が生まれ、先に紹介したベルヌ条約加盟に合わせて1899年に著作権法が制定されている。その後、1970年に全面改訂され現行著作権法に生まれ変わったが、創作者本位(著作者人格権の規定)と、創作物の複写にはその権利を有する者の許可が必要なこと、いらない場合を例外として具体的に列挙している点など、その基本的な考え方は一貫している。

フェアユース規定

 これに対しアメリカは歴史的に、著作者人格権が存在せず、著作権=複製権としてきた(それゆえ、英語のコピーライトは著作権総体を示すことになる)。さらには、著作財産権の例外で許諾なしに複製ができる場合として、包括的な許諾制度である「フェアユース」規定が存在するのが特徴だ。まさに、基本的な部分で天と地ほど違う法精神であることが分かる。

 この違いは時に大きなハレーションを起こすことになる。グーグルは、世の中のすべての情報を収集し、それをホストコンピュータに蓄積・整理し、様々なサービスを実施しているが、その一つに図書館プロジェクトと呼ばれていたものがある。現在のブックサーチ(書籍検索)サービスだ。家に居ながらにして世界中の文献が、その中に含まれる言葉で自由検索でき、しかもその文献を丸ごと読むことも可能という、極めて便利な代物である。しかしこれは、著作者に無断で著作物をスキャニングし、それをテキスト化して蓄積し、しかも無料で万人に提供するというものであって、日本ほか大陸法の国々では完全に違法な行為である。
 しかしアメリカでは、「みんなのため」なら、無断コピーが認められるというフェアユース規定があるために、まさに公正使用=公共利用という観点から、こうしたサービスが許容される可能性があるということになる。そこで、サービス開始当時、世界中を巻き込む裁判にもなり、日本からは日本ペンクラブなどが司法手続きに参加して反対活動を行った経緯がある(『放送法と権力』所収の「デジタル時代のメディア」で詳述)。
 今回の著作権法改正は、まさにこの米国型著作権法への転換であって、その結果、様々な混乱が生じる可能性から免れない。

「柔軟な権利制限」

 しかも、あえて分かりづらい「柔軟な権利制限規定」と呼ぶことで、フェアユース規定ではないと誤魔化(ごまか)していることが問題だ。具体的には、(1)表現の思想または感情の享受を目的としない利用(30条の4)(2)コンピュータでの効率的な著作物利用のための付随利用等(47条の4)(3)新たな知見・情報を生み出す情報処理の結果提供に付随する軽微利用等(47条の5)については、「権利者への悪影響が少ない」として、許諾なしの利用が認められることになった。

 しかし結果として、冒頭にも書いたように、著者に許可なく、著作物を全文スキャニングし、それを利活用して事業を行うことが可能であって、全面的ではないにせよフェアユース規定を導入したことは否定できない。歯止めとして、例えば検索サービスの場合は表示できる範囲を限定化することが予定されているが、それら運用はすべて「政令委任」されており、行政がその時の都合で勝手に決めてよいことになっている。

 まさに、グーグル訴訟でかけられた歯止めを、著作権者の意思とは無関係に経済界の意向で外してしまったことになる。さらには、だれがどのような形で著作物データを保持し、利用しているかも全く分からないうえ、その悪用を防ぐ手立てもないのが実態だ。

 著作権法は、表現者の人格権を保護する一方、文化の継承を図るための知恵であり、市民の知る権利や表現活動を守るという意味で、表現の自由のための法制度そのものである。そして表現の自由はガラスの城であり、一度壊れたら復元不可能だ。文化政策の根幹を支える著作権法が、経済論理で歪(ゆが)められることは、とても残念であるし悲しい。

 (山田健太 専修大学教授・言論法)