社会
未来に伝える沖縄戦

<未来に伝える沖縄戦>野戦病院で手榴弾配る 上原米子さん

 恩納村山田出身の上原米子さん(91)は1941年、名護町(現・名護市)の県立第三高等女学校に入学しました。その年の12月、日本軍による真珠湾攻撃で太平洋戦争が勃発します。楽しかった学生生活は一変しました。卒業式もないまま、本部の八重岳野戦病院で傷病兵の看護に追われました。野戦病院跡地に最も近い本部町立伊豆味中の全校生徒が上原さんの話を聞きました。


当時の経験を鮮明に語る上原米子さん=国頭郡本部町の伊豆味小中学校

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 《1945年1月、看護教育を受けた三高女の学生らは本部町の八重岳野戦病院へ看護実習に行くことになりました。上原さんは3月下旬に動員され、24日に野戦病院に到着します》

 八重岳は今は草がぼうぼう生えていますけどね、あの時は(陣地構築に動員された)地元の小学校4年以上の子どもたちが山に行って、カヤやススキを刈ってきて『ここの野戦病院を造ったんだよ』と話していた。小川も流れ、水もずいぶんあった。

 《4月1日に米軍が本島に上陸しました。8日以降、本部半島に侵攻した米軍と「宇土部隊」と呼ばれた日本軍が激戦となり、負傷した日本兵が病院に運ばれてきます》

 山の中にある治療室に、民家から持ってきた雨戸に足を付けて手術台を作りました。そこへ弾が足に当たり、膝坊主をぶらぶらさせた兵隊が運ばれてきました。すると麻酔をしないまま、糸のこでがさがさ切るんですよ。膝坊主から切り離しても「痛い」と言わない。

 切り落としたら「ああ、やっと切れました。膝がぶらさがっていて重かった。やっと軽くなった」と冗談を言っていた。日本の兵隊さんは強いな、と思いました。切り落とした部分は山の中に埋めた。こういう仕事もさせられました。

 《4月16日、宇土部隊の本部から「病院の者は独自の行動で羽地の多野岳に転進せよ」との撤退命令が出て、八重岳野戦病院を離れることになりました》

 八重岳にいたら全滅するから「今晩、撤退しなさい。歩けない患者は連れて行けないから、枕元に手榴弾と乾パンを配ってきなさい」と隊長に言われました。
 歩けない人たちは連れて行けないんですよ。最後の兵隊さんに手榴弾と乾パンを配ったときだったかね。「看護婦さん、どうしてこんなの配るんですか」と聞いてきた。「よく分かりません」と言ったけど、自分たちが置き去りにされると分かっているんですよ。
 あとから私たちが見たら「海ゆかば」を合唱している。「海ゆかば」はね、どこの学校でも朝会で必ず歌わせていた。これをみんなで歌っているんですよ。これを聞いていて、胸をえぐられる思いでした。でもどうにもならない。歩ける患者さんを連れて、山をいくつか越えていった。

 《八重岳を撤退した三高女の生徒は米軍の迫撃砲や銃撃戦をくぐり抜けて逃げ惑いました》

 午前7時ごろ、いきなりどかんと来たんです。私たちが逃げようとしている時に弾が飛んできてね。岩に当たって破片がぱらぱらと落ちてきた。それから、お腹から血を噴き出している人もいました。
 私も右足の親指の付け根から小指まで破片が入ってる。ピンセットで取ろうとしても、骨と骨の間に挟まり、堅くて取れない。看護婦のお姉さんが来て、私がやりましょうと言うけど動かないんですね。歩いているうちに取れるかもしれないから我慢しておきなさいと言って、包帯を巻いてくれたんです。
 同期生は一生懸命私を励ましてね。「あんたひとりぼっちにしない。みんないるからね。心配しないで」と慰めてるんですね。「みんな逃げたから、早く逃げなさい」といっても聞かないんです。「あんた一人おいて、わたし逃げられない」。そんなこと言って、ずっと残ってくれたんですね。

 《けがをした上原さんは何度も死と直面します。米軍の攻撃ではなく、野戦病院で一緒だった日本兵が原因でした》

 日本兵でうちの班長だった軍曹は気が弱くて、「もう俺たちは助からんから一緒に死のう」と言って、自分の持っている手榴弾を出してね。その時に私の友達が「班長! なぜそんなことをするんですか。わたし死にたくない。班長、死にたかったら一人でどっか行って死んでください」と。あのころ、子どもが大人に向かって口答えしたら大変でしたけどね。この人は偉いなあ、と思った。班長から手榴弾を奪ってね。気の強い子だった。それで私たちは助かりました。
 それから、防衛隊の人がね、「あんた歩けないんでしょう。これを杖にしなさい」と言って、木の枝で私に杖を作ってくれたんです。杖をついて歩くけど、でこぼこ道で山道ですからすぐ転ぶんです。だから、あとは四つん這いになって後を追っていった。すると、同じ仲間の兵隊が私に銃を向けたんです。「女がついてくると邪魔だから、撃つぞ」と。
 もうびっくりしました。仲間の兵隊にこんなこと言われるのかと、涙がぽろぽろ流れました。うちの班長が「この人たちは今まで野戦病院で働いていた学生さんだよ。お前は銃を向けるのか」と言って怒ったんですよね。兵隊はぶつぶつ文句を言いながら前に進んでいった。それで、わたしはまた命拾いしました。やがて撃たれるところだった。

※続きは6月13日付紙面をご覧ください。